投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2017年 7月20日(木)12時52分43秒   通報
また、学会の幹部だけでなく、私たち一般会員に置き換えてみても、
明らかに迷信としかいいようのない我見の信心論があるし、

会員になんら存在価値をもたない〝死んでいる思想〟もあります。

仏法は魔法ではなく道理です。

題目を上げない人が「題目が大事だ」と言って誰が信じるでしょう。

教学を学ばない人が「教学が大事だ」と言って誰が信じるでしょう。

実践しない人が「実践が大事だ」と言って誰が信じるでしょう。

師匠の言説通りにしない人が「俺は師匠の弟子だ」と言って誰が信じるでしょう。

そんな主張は所詮、自分の弱さを隠すために利用しているに過ぎません。
人の心の奥深くにも入っていきません。

慢心の定義は「教に依らない」ということです。

これらすべてを〝一切の先入観を捨てて客観的に評価していく方法〟――これが「宗教批判の原理」です。

そして、この宗教批判の原理は実に緻密でそのもっとも基本となる

原理が「三証」「五重の相対」「宗教の五義(五綱)」なのです。

冒頭に挙げた「宗教学と宗教批判の原理」の分析法は、本質的に違います。

宗教学は宗教を客観的に研究しようとしますが、
それは単に教義や宗教現象を観察し、Aの宗教はこうで、
Bの宗教はこうだと認識するだけにとどまっているように思います。

言い換えれば、宗教に関するあらゆる実証的な知識と資料とを集め、
それを整理し、組織立てるのが宗教学です。

要するに、宗教学では宗教に関する知識を集めて
現象面を表層的にとらえているのみで、とても宗教の本質を追究しているとは思えません。

宗教が自分の生活のすべてに影響を与える以上、

私たちが一番〝知りたい〟のは、宗教の正邪です。

つまり、どの宗教が私たちの生活にプラスの結果をもたらし、
マイナスの結果をもたらすのか――です。

客観的な分析や研究をさらに進めて、本質を把握し、
宗教の正邪・高低・浅深に論及しなければ、

宗教学でいう知識は〝死んだ知識〟となり、
私たちの生活に〝生きたもの〟とはならないと考えます。

つまり、人々に幸せを与える真実の宗教とは何か――これを見極めていく

「宗教批判の原理」による分析評価のみが、真実の宗教学といえるのではないでしょうか。