投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2017年 7月20日(木)12時52分0秒   通報 編集済
すべての物事には、それを比較評価する方法があるように、
宗教にも合理的に、また科学的に間違いなく「浅深・高低・正邪」を

見極めていける一定のルールや方法があります。

たとえば、長さを知るには物差しを用い、重さを知るには重量計を用います。
また、速さはスピード計で測定するし、

暑い寒いと感じるならば、寒暖計を用いれば簡単に判明します。

宗教や思想もそれらと同じで、

その教義や思想に哲学的裏付けはあるのか等々、
あらゆる視点から宗教を比較できる原理があるのです。

人生の生き方を教え、その人の全人格を左右する宗教を選び取るならば、
当然、その宗教が何を主張し、どのように生きていくことが正しいのかを

〝勉強〟しないで解るはずがありません。

だからこそ創価学会は、任用試験でもっとも重要な
「宗教批判の原理(五重相対・五義・三証)」を最初に教えるのです。

もし学会幹部や会員が、この原理を「学ばない・学ばせない」なら、

その人は〝魔の眷属〟と言えるでしょう。

涅槃経には「もし、仏の所説に従わない者がいたら、当に知れ! この人は魔の眷属なり」(一五二頁)

と述べられています。

宗教に対する〝無智〟は、そのままその人の不幸に結びつきます。

また、大聖人は

「よくよく世間のありさまを見てみると、人は皆、口にはこの経を信じ、
手には経巻を握っているといっても、経の心に背いているので悪道を免れがたい(通解)」(一四三九頁)

と述べています。

「私は御本尊と大聖人と先生一筋だ」
「私は池田先生の弟子だ」
「私は誉れある学会員だ」

と自信満々と主張する人の中で、一体どれだけ
宗教の本質を思索し、御書や先生の指導を研鑽し、

幹部指導を御書に照らして比較検討した人がいるのでしょうか。

そうゆう実践行動をしない人の言葉は、信ずるにたりない
軽いものになりがちだし、人の心には刺さらないものです。

ましてや先生に代わって広宣流布を目指そうと決意している人が、
そのような実践なくして、どうして人を指導することができるでしょうか。

そういう人の言は無責任極まりないとしかいいようがない。