投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2017年 7月20日(木)12時51分14秒   通報
人が行動を起こす場合、必ず何かを〝信じて〟行動します。

食事であれ、仕事であれ、宗教であれ、行動の出発点は〝信ずる〟ということです。

たとえば、食事をする場合、その料理には
毒が入っていないと信じているからこそ〝食べる〟という行為ができるし、

仕事をすれば、必ず給料がもらえると信じているからこそ〝仕事をする〟のと同じです。

人間が地道に努力するのも、その努力の結果が得られる〝何ものか〟を信じているからです。

たとえ〝信ずる〟ということをあまり意識していなくても、
常に〝信〟が行動の出発点であることに変わりはないはずです。

ここで問題になってくるのは「何を信じているのか」ということです。

もし私たちが間違ったものを信じて行動すれば、
結果はどうなるか――答えは簡単です。

それは不幸であり、行き詰まりの人生です。

信号は「青信号」で進み「赤信号」で止まるというのが、交通ルール(規則)です。

この交通規則をしっかり学んでいる人の言う通りに実践すれば、事故は起きません。
しかし、規則を無視して赤信号を進めば、事故を起こすのは当たり前です。

ましてや生命の法則を解き明かした仏法や思想の世界に至っては、なおさら幸・不幸が顕著です。
しかも宗教は単に個人の信仰にとどまらず、数多くの民衆文化の底流をつくっていくものです。

誤った思想や宗教が、国家や民衆を破壊へと駆り立てることは歴史が証明しています。

事実、ユダヤ人虐殺や国の興亡、変遷の底流は
まさに「思想・宗教」といっても過言ではないのです。

だからこそ日蓮大聖人は、間違った思想を破折し、
国家権力が正しい方向にいくように国家諌暁されたのです。