投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2017年 7月20日(木)12時50分30秒   通報
先日、ある友人から

「宗教学と宗教批判の原理の〝分析法〟の違い」を

教えてほしいとの要望がありました。

また〝面倒くさい事をいうヤツだなぁ〟と思うと同時に、
そういう観点で物事を見ていることに感心もしました。

まず「分析法の違い」を述べる前に、
前提として知っておかなければいけないことがいくつかあります。

ネットを閲覧していると、

近年は「学会員の教学力の劣化」が話題になっていますが、

その原因はこの〝考える〟〝思索する〟という鍛錬が
極端に減ったことがその原因の一つだと考えられます。

なにより一番怖いことは、何かを教えてもらっても、

それで「わかったつもり」になることです。

それらは、その原理なり、文言なりをただ「理解しただけ」で、
それで終わりではないのです。

むしろそこから自分のものとしていくための鍛錬が始まるわけです。

大聖人は

「人を怨んではいけない。眼があるならば経文に我が身をあわせよ(通解)」(二二八頁)

と述べています。つまり、

何か事が起こった時は、人のせいにするのではなく、まず経文に書かれていることを
よく理解して、その経文に我が身をあわせて「よく考えろ!」ということです。

いくら教学を教えてもらっても、その理解した時から、さらに思索し、
自分に引き当てて物事を考えていく鍛錬をしなければ、

いつまでたっても深まっていかないし、自分のものとはなりません。

しかしこの鍛錬を皆、避けるのです。なぜかと言えば、

自分自身と向き合うのが、実は一番辛いからです。

たとえば

「題目をあげろ」と言うと、題目だけを上げても行動しなければ、問題は解決しないという。

「教学を勉強しろ」と言うと、教学だけを勉強しても行動しなければ、問題は前に進まないという。

「行動しろ」と言うと、行動も大事だけれどまず祈らなければ、問題は解決しないという。

これではまるで堂々巡りの会話です。

なぜ題目も、教学も、行動も、同時に「実践しよう」としないのでしょうか。

真実の法華経の行者は「信・行・学」の三つを常に実践しているものです。

一つも欠けてはいません。
それが「如説修行の人」です。

結局、出来ない憶病な自分自身を見つめるのが嫌なだけです。