投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月 3日(火)11時43分21秒  

独房の中で、毎日筆を執って約一ヶ月かけて書き上げた訊問調書は、
一冊の本になるぐらいの厚さになっていました。

七月四日付けの書簡には、それを予審判事に提出したことが記されています。

この自筆の調書は、日蓮大聖人の「立正安国論」に比すべき、
獄中における烈々たる執念の「諌暁の書」だったといえるでしょう。

牧口先生が、自ら病監(刑務所内の病院)へ移ることを希望したのは、
一九四四(昭和十九)年十一月十七日のことです。

すでに死を予想していたのか、足袋から下着、
襦袢にいたるまで洗濯をしたものを身につけていました。

「おぶってさしあげましょうか」

看守が体の衰弱を見て声をかけます。しかし、牧口先生は、静かに断りました。

「せめて手でも引いてあげましょうか」
「ひとりで歩けますから、ありがとう・・・」

このように一人で病監に歩いて行きベッドに横たわるとゆっくり目を閉じます。
老衰と極度の栄養失調でした。

翌十八日午後六時すぎ、
この日は奇しくも創立の日と同じ十一月十八日、
牧口先生は眠るようにして七十三年の死身弘法の尊い生涯を閉じたのです。

その顔には、やるべきことをやり終えたという、
穏やかな安堵の表情がただよっていたにちがいありません。

最後の最後まで一歩も退かず、日蓮大聖人の如く「国家諌暁」の道を貫いた牧口常三郎先生。

牧口先生は、生涯を通してどうすれば
民衆の幸福が築かれるのかを追い求めてきた思想家でもありました。

やがてその答えを日蓮仏法に求めたのは、必然的な帰結だったといえます。

殉教の道を歩んだ牧口先生の思想と行動は、常に「民衆の幸せ」と「世界の平和」でした。