投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月 3日(火)11時42分40秒  

《昭和十九年一月十七日》(同二八四頁)

御守り御本尊、母のものでも入れて下さい。これは特にお願いして下さい。
信仰を一心にするのが、この頃の仕事です。これさえしていれば、何の不安もない。
心一つのおき所で、地獄に居ても安全です。
三人で朝夕の信仰を怠ってはなりません。

《昭和十九年十月十三日》(同三〇〇頁)

十月五日付、洋三戦死の御文、十一日に拝見。びっくりしたよ。がっかりもしたよ。
君国のための戦死だけ、名誉とあきらめ、ただ冥福を祈る信仰が、いちばん大切ですよ。
二人共。私も元気です。

カントの哲学を精読している。
百年前、およびその後の学者共が、望んで手を着けない「価値論」を私が著し、
しかも上は法華経の信仰に結び付け、下、数千人に実証したのを見て、自分ながら驚いている。
これ故、三障四魔が紛起するのは当然で、経文通りです。

この書簡の一部を見ても明らかなように、獄中にあって信心の姿勢、心境は、
いささかも揺らぐことなく、日蓮仏法の信仰への確信、仏法の正義を死守し、
平和主義、人間主義に生き抜いた強靭な信念が読み取れます。

妙法を根本にして民衆救済の戦い、立正安国を願って行動を貫いたがゆえに、
命にもおよぶ大難を何度も受けられた日蓮大聖人の振る舞いが、
獄中にあった牧口先生にどれほどの励みになったか計り知れません。

特に、日蓮大聖人の首を斬ろうとして結局、斬れなかった「竜口の法難」と
それに続く「佐渡流罪」を悠々たる境涯で乗り越え、
末法万年の民衆救済の道を歩み抜かれた大聖人の振る舞いを思うと、

いかに厳しい獄中生活であれ、
それは「大聖人様の九牛の一毛です、とあきらめて益々信仰を強める事」に過ぎないのであり

「過去の業が出て来たのが経文や御書の通り」故の難にほかならなかったと思ったのかもしれません。

「あきらめて」という言葉には、そうした牧口先生の心情、透徹した人生観が
披瀝されているといえるのではないでしょうか。

それはまた、大聖人が「佐渡御書」に記した
「日蓮も又かくせめらるるも先業なきにあらず不軽品に云く「其罪畢已」等云云」(九五八頁)、

また
「当世の王臣なくば日蓮が過去謗法の重罪消し難し」(九六〇頁)と仰せのように、

獄中生活を余儀なくされたが故に、
牧口先生自身の宿業が転換していけると捉える確たる信心に立っていたことを示すとともに、
必ず立正安国の平和な世界が実現すると確信していたのだと思います。