投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月 3日(火)11時44分1秒  

牧口先生は、日蓮仏法と出会うことでもともと人間生命に備わっている
エネルギーを無尽蔵に引き出す「法」があることを知りました。

その法にしたがって生きることこそ、はじめて人間性を開花させ、
幸福を生むことができると実感したのです。

さらに仏法の理解が深まるにしたがって「大悪」とは、
人間の生命を脅かすすべての物や現象だと明確に位置づけするようになりました。

そして、日蓮仏法を根本にして生活することこそ「大善生活」であると主張します。

それは、人権、平和、共生などに敵対する「大悪」に対して、
闘いつづける屹立した個人の確立は仏法をもってしかできないという確信です。

そして、そういう個人の連帯が、
新たな人間主義の時代を開く鍵になると仏法流布の闘いを展開したのです。

牧口先生がつくろうとしたのは、国家という枠組みを超えた、
人間という普遍的な存在に目覚めた個人の連帯だったといえます。

その行為は、戦争遂行のために、ますます国家という枠組みをきつくしようとしていた
当時の軍部政府と真っ向からぶつかるものでした。

ある意味で牧口先生の逮捕は、必然だったといえます。

戦争遂行のために、国民の統合に利用されている天皇を神とする国家神道の
間違いをただし、天皇も人間であり、過ちを犯すこともあると指摘し、
教育勅語は最低の道徳であるとする持論を訊問調書の中で語っています。

そして仏法の教えは、大日本帝国憲法よりも優先することを明言しているのです。

先ほどもふれましたが、獄中で訊問調書を書き、
当時の軍部政府に提出することこそが、獄中闘争だったのです。

訊問調書は、人間の生命を脅かす最大の「大悪」である戦争を推進しようとする
当時の権力者への諌暁の叫びともいえます。

権力者の生命に巣くう魔性の正体をえぐり出し、
それを断ち切っていこうとする気迫をこめた牧口先生の「国家諌暁書」なのです。

不二の弟子であった戸田先生は、後年「牧口先生」という論文を発表し、次のように述べています。

「牧口先生は人格高潔、物事にたいして、いやしくも軽々しく事を行わず、
一文半銭も貪ることなく、清貧に甘んじて、いっさいの衆生のために仁慈をたれられたお方である。
こと不義と名のつくものには仮借なくこれを責めて、正道に生きることを主張せられた」
(戸田城聖全集第一巻三一八頁)――と。