投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月 3日(火)11時38分48秒  

この時、牧口先生が権威に従わず、正義をつらぬき、日興上人の遺誡を守りぬいたからこそ、
正法の命脈と、広宣流布の道は断絶することはなかったと言えます。

しかし、日蓮大聖人の正義を守ることよりも、難を恐れ、我が身の保身を第一にした宗門は、
法主である日恭の立ち会いのもとで、信徒に神札を祀るという「謗法を行う」ように命じたのです。

牧口先生は「神札は絶対に受けません」とその勧告を拒否します。

そして、六月二十八日、再び大石寺に登山し、
日恭に直接「神札を甘受することは誤りである、いまこそ国家諌暁のときである」と訴えました。

しかし、それは受け入れられず、当局の追及を恐れた宗門は
「申し渡し」を聞き入れない「牧口・戸田」をはじめ学会幹部を「登山禁止処分」にしたのです。

以前から、牧口先生が出席している座談会には特高警察が立ち会うことがありましたが、
一九四三(昭和十八)年ごろからは話が「神札」や「国家体制」のことなどに及ぶと
「弁士! 中止、中止!」と、直接さえぎるようになりました。

牧口先生はそのたびに話をそらし、また神札のことに話を戻します。
すると再び「中止!」の声がする。官憲によって何度中断されようとも、
牧口先生は国家崇拝・邪宗崇拝の非を訴えることを止めませんでした。

牧口先生は、自分の神札排斥の言動が不敬罪などに問われ、
それが不当逮捕につながる危険性があることを予想していました。

そうなれば、法廷で自分の考えを主張しようと「国家諌暁」の姿勢をつらぬく決意を固めていたのです。そんな覚悟を表すかのように、牧口先生は春ごろから本部の二階で「立正安国論」の講義をはじめています。

そして、逮捕を現実の問題として受け止めはじめていたのです。

牧口先生は家族に
「これから先のことだけど、僕にもしものことがあって、死んだときには、
一切、戸田君がしてくれる。お焼香をするのは戸田君がいちばん先だ。
お前たちは、いちばん最後だよ」と話したといいます。

一九四三(昭和十八)年七月四日、特高警察の厳しい監視下にもかかわらず、
牧口先生は伊豆におもむき、蓮台寺の旅館の一室で座談会を開いていました。

その一週間前には、学会の幹部数人が淀橋署に検挙されています。
翌五日は、下田で座談会を行い、夜、須崎の知人宅に折伏に向かいました。

その家で一泊し、翌六日、朝食が終わったころ、
下田署の刑事が、牧口先生に面会を求めにやってきたのです。

そして、そのまま下田署に連行されました。