投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月 2日(月)11時49分30秒  

まさにこの時、牧口先生はただ一人、国家諌暁の闘争を展開していたのです。
牧口先生は、宗門の当局への迎合に憤りを感じていたにちがいありません。

大御本尊を伝え、形ばかりの謗法厳戒を守り伝えてきたとはいえ、
宗祖日蓮の「広宣流布達成」の遺命などは夢のまた夢、考えもしなかったであろう日蓮正宗です。

また、戦前・戦中の国家権力の弾圧を恐れ、日蓮大聖人の精神を踏みにじり、
あっさりと捨て去ってきた事は隠しようのない事実です。

そこに出現した牧口先生の思想・精神は、日蓮大聖人の精神とストレートに共鳴し、
創価学会を「広宣流布の団体」と明確に位置づけたのです。

宗門によって失われようとしていた日蓮大聖人の正法正義を死守し、その命脈を受け継いだのは、
まぎれもなく牧口先生であり、もしも創価学会が出現しなかったならば、釈尊から始まる仏法の流れも、末法と言う濁流の狭間で途絶えてしまっていたかもしれません。

一九四三(昭和十八)年に入ると、牧口先生は二度、警視庁へ出頭を命じられます。

五月には中野署に一週間留置され、
神札や神社への礼拝などの問題について取り調べを受けています。
牧口先生の謗法厳戒の指導によって、学会員が神札を受けないことが、
弾圧の口実になると恐れた宗門は、同年六月に、牧口先生ら幹部を大石寺へ呼びつけて、
会員に神札を受けさせるように命じました。

当時の状況を、戸田先生は『創価学会の歴史と確信』の中でこう述べています。

「当時、御本山においても、牧口会長の宗祖および御開山のおきてに忠順に、
どこまでも一国一家も個人も、大聖の教義にそむけば罰があたるとの態度におそれたのである。

信者が忠順に神だなをまつらなければ、軍部からどんな迫害がくるかと、御本山すらおそれだしたようである。
昭和十八年六月に学会の幹部は登山を命ぜられ、神札を一応はうけるように会員に命ずるようにしてはどうかと、二上人立ち会いのうえ渡辺慈海師(庶務部長)より申しわたされた。

御開山上人の御遺文にいわく『時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事』、この精神において、牧口会長は、神札は絶対にうけませんと申しあげて下山したのである。

しこうして、その途中、私に述懐して言わるるには
『一宗がほろびることではない。一国がほろびることを、なげくのである。
宗祖聖人のお悲しみを、おそれるのである。
いまこそ、国家諌暁のときではないか、なにをおそれているのか知らん』」――と。
(戸田城聖全集第三巻一〇六頁)。

・・・・つづく。