投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月 2日(月)11時46分42秒  

牧口は男の方に視線を向けたまま、しばらくは沈黙していた。
男もいうだけのことをいうと静かになった。

牧口は出席者の方に向き直ると『天照太神とは法華経の行者を昼夜にわたって守る諸天善神なのです。
・・・・現実生活に証明される大善生活法は、人生の理想として誰人も渇望している。

仏教の極意である成仏法こそ妙法であり「神ながらの道」
の神髄もこれでなくてはならないと説き始めた。
出席者の表情もやわらぎ、次第に牧口の話に吸い込まれていった。

いつの間にか、男の姿は消えていた。
こういう突然の出来事で始まった総会は、そのあと会員の体験発表に続いて質問会へと移った。
そして『時間だ』と特高刑事がストップをかけるまでの二時間、牧口は淡々とした態度で指導を続けた。
(一三六頁~七頁)」(牧口常三郎全集十巻八六頁)――と。

牧口先生にとって宗教は、実生活のうえに、
どれだけの価値をもたらすかが「正邪」の判断の唯一の基準だったのです。

会員たちの実生活のうえに現れる体験や変化は、
そのまま牧口先生の日蓮仏法への確信になっていったのです。

そんな中、同年十二月八日、日本は米英に宣戦布告。
太平洋戦争(第二次世界大戦)が始まりました。

一方、弱腰であった宗門の時の貫主は、第六十二世日恭です。

日恭は戦争が始まった時、宗内一般に対して「訓輸」を発し、開戦の必然性を述べたうえで
天皇の威光のもとに陸海軍が多大な戦果をあげたことに感謝し「仏祖の遺訓に基づき」
未曾有の大戦に必勝を期すべきであると日蓮大聖人の教えを都合よく利用して、
開戦を賛美し戦意を鼓舞したのです。

牧口先生は、一九四二(昭和十七)二月からは、座談会の名称を「大善生活法実証・座談会」と変え、
会員たちに「菩薩行」に徹する「大善生活」を強調していきます。

そのころ、創価教育学会の支部は、東京に十六、地方に十二を数え、
会員数は四千人にまでなっていました。

太平洋戦争の戦時下にあっても、牧口先生の行動は衰えることはありませんでした。
しかし、国内の思想統一を企てる軍部権力によって、反戦思想とみなされた宗教団体や思想団体への弾圧が激しくなり、
創価教育学会の機関紙「価値創造」も治安当局の指示で廃刊を命じられ「価値創造(大善生活実証録)」は
同年五月十日発行の第九号をもって廃刊となりました。

創価教育学会の活動を、治安当局は危険視し出したのです。