投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月 2日(月)11時43分4秒  

④「宗教とは人間が人間以上のある対象を神とか仏とか名づけて信仰していることであると考えている人がある。
・・・・その本尊がどんな力を持ち、どんな作用を持っているか、すなわちその本尊の実体を明らかにしなければ、これを信仰の対象とすることが馬鹿らしいことである」(一八〇頁~一八一頁)、と述べています。

牧口先生は、人間が人間以上のある対象を神とか仏とか名づけて信仰をするのではなく、
あくまでも法(御本尊)を対象として信仰していくことと考え、
その本尊の実体が明らかなものを用いるべきであると考えていました。

これを見ても明らかなように、牧口先生は徹底して「依法不依人」という精神に立って宗教を検証しているのです。

⑤「日本人の多くは仏教の各宗派に属していて、先祖伝来の墓を守り、
お盆やお彼岸にはそこへ参詣して僧侶に供物でも上げたり墓の掃除をすることなどが
宗教であると考えている者が多い。
これに対しては現代の腐敗した寺院の僧侶たちは喜ぶにちがいないが、
これでは釈尊の真意はまったく忘れさられてしまったのである」(一八三頁~一八四頁)。

牧口先生は、葬式や法事などの形式は宗教ではないと考えていました。
どこまでも「皆が幸福を求め、自己自身も幸福になり、平和で幸福な社会を建設するために、
根本的な原理となり、規準となるものが宗教でなくてはならない。(趣意)」(一八四頁)
と考えていたのです。

このように価値論を見てみると、宗教は現実の人生や社会に価値を創造しなければ、
意味がないと考えており、葬式仏教と化した既成仏教を厳しく批判しています。

また、人間以上の何かに人間がひれ伏していくような信仰のあり方にも疑問を持っていました。

この牧口先生の宗教批判は、日蓮大聖人の宗教批判とみごとに合致しています。

現代に至り、ようやく世界各国で正当な評価が始まった「価値論」ですが、
牧口先生が生命本来の価値を創造することに、信仰の本義を置いていた日蓮仏法にたどりついたことは、
当然といえば当然だったのかもしれません。

日蓮宗各派の中で、牧口先生が日蓮正宗を選択した理由は、
端的にいえば、日蓮正宗が他の日蓮宗各派よりは正しく日蓮の信仰を今に伝えていると判断したからでしょう。