投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月 2日(月)11時43分53秒  

牧口先生は、一九二九(昭和四)年二月のある日の夕刻、目黒にあった戸田先生の自宅を訪ねます。

「戸田君、小学校校長として教育学説を発表した人は、いまだ一人もいない。
・・・・私は、小学校校長として現職のまま、この教育学説を、今後の学校長に残してやりたいのだ」。

そう話し出す牧口先生の思いを聞きながら、戸田先生は師(牧口)の学説の体系は
自分が出版しようと決意します。

「先生の教育学は、何が目的ですか」
「価値を創造することだ」
「では先生、創価教育と決めましょう」

こうして、牧口先生の教育学説は「創価教育学」と名付けられることになったのです。

その後、牧口先生は率先して全国を回り、活発に活動していく中で、
宗教の研究法を詳細に語っていきました。

この「宗教の研究法」の主張は、一九三七(昭和十二)年の
「創価教育法の科学的超宗教的実験証明」の中に記されています。

そこには
「先ず『師』とするに足る正しい人の言を信じ『如説の実行(師の教説の通りに実践する)』をなし、
体験によって価値の有無を証し、無価値なる主観的の観念論を捨て、
以て人をも離れて生活関係の『法』を信ずるのである。

さらに何故に価値が証明されるかを、経文ならび道理にただして、益々信仰を確立し、
かくて価値の遠大と近小とを比較対照して研究し、ついに無上最高の極意に達し、
ここに初めて畏るる所なき安全の境地に達する。
『(一)信、(二)行、(三)学』という科学」(牧口常三郎全集八巻七四頁)と述べています。

ここは大事なところなので、詳しく解説します。
牧口先生は、宗教の研究法として「先ず『師』とするに足る正しい人の言を信じ」、これが(一)の「信」。
その「言説の如く実行し、体験によって価値の有無を証し」、これが(二)の「行」。
もって人をも離れて説かれている生活関係の法そのものを信じ、
さらに何故に価値が証明されるかを「経文ならび道理にただして」、これが(三)の「学」。

いよいよ信仰を確立するというように、
宗教における価値の「遠大と近小」を比較対照して研究することを力説しました。

この考えは、日蓮大聖人の「一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ、あひかまへて・あひかまへて・
信心つよく候て三仏の守護をかうむらせ給うべし。行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず。
我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」(一三六一頁)