投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月 1日(日)23時39分1秒  

牧口先生は、一九二八(昭和三)年六月に日蓮正宗に帰依しますが、
それ以前の宗教観は、どのようなものだったのでしょうか。

それを見ていきたいと思います。

まず
『創価教育学体系「法華経と創価教育」※読みやすいようにしました』の中で

「もとは禅宗の家に生れ、法華の家に養はれたのであったが、なんら信仰の念はなかった。
苦学力行の青年期に敬愛し親近した師友は、キリスト教徒であったが、
ついに入信の程度には至らなかった。

壮年上京以後、儒教の道徳だけでは不安に思えて、再び禅に参じ、
キリスト教徒に聴き、深呼吸法をも習い、その他の教説にも近づき多少の入信はしたが、
ついに深入りするには至らなかったが、神道に基づく禊会(みそぎかい)には十数年間、
夏冬のいづれかに参加し、お陰で今もなお毎朝の冷水浴は欠さないほどに至っている。

が、心から信仰に入ることは出来なかった。いづれも科学および哲学の趣味を転ぜしめ、
又はそれと調和するほどの力あるものと感ずることはなかったからである」
(牧口常三郎全集八巻四〇五頁)と述べられています。

合理的、実証主義的な生き方を貫いている牧口先生ではありましたが、
この述懐でもわかるように、牧口先生の人生行路は必ずしも平穏とは言い難く、
それらの苦悩と関連付けて宗教遍歴を自分なりにうなずける向きがあったのかも知れません。

事実、一九二四(大正十三)年十二月、五十三歳の時に次男の善治(二十三歳)・
一九二八(昭和三)年七月、五十七歳の時に四男の長志(十九歳)が相次いで亡くなっています。

家庭の不幸、しかも最愛の子息を亡くすという出来事は
五十代を向かえた牧口先生にとっては耐え難い苦悩であったと思います。

牧口先生にとって「信仰に入る」という道程は、
「科学および哲学の趣味を転ぜしめ、又はそれと調和するほどの力あるものと感ずる」ものであって、

ある種の宗教教団の教祖の説や、それを現在に伝えている時の代表者(法主的なもの)の言葉を、
盲目的に信じて随順するものではなかったということです。

これらの宗教遍歴を見てもわかるように、
もともと牧口先生は宗教を否定するような態度はとっていません。