投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月 1日(日)23時32分41秒  

誠実一路さんから
「日興遺誡置文を今の学会に照らし合わせるとどのように捉えたらよろしいでしょうか」
との質問がありましたが、そもそも日興上人が「遺誡置文」を著した目的は、
「偏に広宣流布の金言を仰がんが為なり」(一六一七頁)
――ひとえに広宣流布せよとの日蓮大聖人の御言葉を仰ぐためである――
というのがその目的であり結論です。

この遺誡の真意を身読し、現実のものとしたのは「創価三代の会長」であるということを考えれば、
「日興遺誡置文を今の学会に照らし合わせる」ということよりも、むしろ創価学会会則の

――《第1章 総則 /(三代会長)第3条 牧口常三郎初代会長
戸田城聖第二代会長、池田大作第三代会長の
「三代会長」は、広宣流布実現への死身弘法の体現者であり、
この会の永遠の指導者である》――

に照らして見ていく方が価値的だと思いますと述べました。

とはいうものの、
日興遺誡置文を検証するのは決して無駄ではないと思いますので要点だけを若干述べてみたいと思います。

日興遺誡置文については「大石寺五十九世・日亨」が
《「富士日興上人詳伝」聖教文庫》のなかで注解していますので、
それを参考に見ていきたいと思います。

日亨はこの遺誡の主要部分を三段に立て分けて注解しています。それは、

第一、万代法則ともいうべき主要にして、かつ永遠性を帯びたもの
(五人所破抄・門徒存知事の要点と共通)
第二、永遠性を帯びても普通の一般的なもの
第三、軽重にかかわらず一時的なもの

この三つです。下記がその立て分けです。

■第一 万代法則ともいうべき主要にして、かつ永遠性を帯びたもの
一、富士の立義聊も先師の御弘通に違せざる事。
一、五人の立義一一先師の御弘通に違する事。
一、檀那の社参物詣を禁ず可し、何に況や其の器にして一見と称して
  謗法を致せる悪鬼乱入の寺社に詣ず可けんや。
  返す返すも口惜しき次第なり、是れ全く己義に非ず経文御抄等に任す云云。
一、未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事。

■第二 永遠性を帯びても普通の一般的なもの
一、謗法を呵責せずして遊戲雑談の化儀並に外書歌道を好む可からざる事。
一、器用の弟子に於ては師匠の諸事を許し閣き御抄以下の諸聖教を教学す可き事。
一、学問未練にして名聞名利の大衆は予が末流に叶う可からざる事。
一、当門流に於ては御書を心肝に染め極理を師伝して若し間有らば台家を聞く可き事。
一、論議講説等を好み自余を交ゆ可からざる事。

■第三 軽重にかかわらず一時的なもの
一、御書何れも偽書に擬し当門流を毀謗せん者之有る可し、
  若し加様の悪侶出来せば親近す可からざる  事。
一、偽書を造つて御書と号し本迹一致の修行を致す者は師子身中の虫と心得可き事。
一、時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事。
一、衆議為りと雖も仏法に相違有らば貫首之を摧く可き事。
一、刀杖等に於ては仏法守護の為に之を許す。但し出仕の時節は帯す可からざるか、若し其れ大衆等に  於ては之を許す可きかの事。
一、若輩為りと雖も高位の檀那自り末座に居る可からざる事。
一、先師の如く予が化儀も聖僧為る可し、但し時の貫首或は習学の仁に於ては設い一旦の・
  犯有りと雖  も衆徒に 差置く可き事。

ということですが、日亨はこれらの三段は「必ずしもそれにこだわる必要はない」とも述べています。