投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2017年 3月10日(金)14時54分14秒 通報
御書には
「功徳とは六根清浄の果報のことをいうのです。
(中抜)功徳とは即身成仏であり、また六根清浄のことです。
法華経の経文に説かれるように修行することが、
六根清浄であると心得ていきなさい(通解)」(七六二頁)とあります。
簡単に説明すると、
経文通りに仏道修行を貫けば、物事の本質(正は正、邪は邪)と
人の境涯が正確に判断できるようになり、
自在の大境涯を得ることができるということです。たとえば、
菩薩の境涯の人は、法眼が具わってきますから、経文を見れば
人々を救済する無量の法門であると見、仏の境涯の人は、仏眼が具わり経文を見て、
一々の文字を金色の釈尊・常住不変の生命の輝きをもつ仏であると見えるのです。
反対に、修羅の境涯は「諂曲なるは修羅」(二四一頁)ですから、心がひねくれ争いを好む生命です。
だから何を言っても聞く耳を持ちません。
正といえば邪、邪といえば正と天邪鬼(あまのじゃく)のようです。
それが修羅の境涯の特徴です。大聖人も
「邪見にとらわれた者は、このように尊い〝経〟を低い爾前権経と同等視して破る(通解)」(同頁)
といっています。つまり、
邪見にとらわれた者は我見と感情のみで対話し、仏法を破るということです。
そういう人にとって「経文を根本に・道理を正して」などという理屈は関係ないのです。