投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2017年 3月10日(金)14時51分13秒   通報
人間の生命とは不思議なもので〝同じ話や文章〟を読んでも、
その人によって受け取る感想や理解度、また筆者の意図する事とはまったく違う、

いわゆる「読み違い」などが起こる場合があります。
いったいなぜこんなことが起こるのでしょうか。

御書には「一念三千は十界互具よりことはじまれり」(御書一八九頁)とありますが、
仏法の要である一念三千論(生命論)を学ぶにあたって、その基礎ともなる

「十界論・十界互具論」をしっかり学び、命で体得している人なら

「人にはそれぞれ異なった個性や経験値などがあり、感情の起伏もさまざまである」ことは

容易に理解できるし、それが〝生命の姿である〟ということも当たり前に理解でき、
なにも不思議ではないと感じているでしょう。

では、仏法の極説中の極説である生命の本質を説いた「一念三千」とは何なのか。

この生命の理(ことわり)を解明していくことで、
すべての現象の本質が明らかになっていくのではないかと考えます。

しかし、生命を主体的にとらえ、そこから普遍の哲理を鋭く見出し、
壮大な生命哲学を分かりやすく説くことは至難です。

それに大聖人や天台が一生を費やして説いた生命の本質(一念三千)を、
わずか数枚分の文章で明らかにできるなどとは思いません。

だからここでは、皆さんが教学を研鑽する時に、少しでも思索の参考になるように、
なるべく平易な言葉を選び、生活に即して考察していきたいと思います。