投稿者:螺髪 投稿日:2017年 3月 2日(木)09時49分34秒   通報
「生命論」の視角からの「諸精霊」「偶像」への考察 <下>

「偶像」もまたしかりです。見る「偶像」もありますし、見られる「偶像」もあります。偶像は仮想ですから、この娑婆は、「仮想」と「仮想」が織りなす「世界」なのかも知れません。
私たち一人ひとりも、この娑婆に自身の「偶像」をつくりにきている側面がありはしないでしょうか。“人生は劇”という視点がそれです。本当の自分は「十界本有」なのに、「菩薩」の衣を羽織ったり、「声聞」の装いを着込んだり、時に、惰性に流されて三毒・四悪に陥ったり、六道輪廻を繰り返していたりすることは、あんがい多くはないでしょうか。

「偶像」も、「己心の法」に造り上げる個人のイメージの積算と言えなくはありません。そう見ると、諸精霊と偶像は、同じ類いのものであると言えるかも知れません。誰かの「偶像」は、受け取る人のイメージの積算のなせるものですし、自身のイメージも多数や一人の他者がこしらえる偶像です。

問題は、個々人の偶像も、他者の偶像も、あるいはまた諸精霊といっても、それを保つ側が自由に造り上げたイメージの積算であるということです。「八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり」(563㌻)というわけです。
餓鬼や畜生のような人、あるいは菩薩や仏のような人……といっても、それは、自・他ともに、本体から垂れ出た“垂迹”だということです。仏法は「十全の智慧」、つまり「十界」を説きますから、その一部、あるいは部分が強調されているに過ぎません。「本体」は「十全の智慧」であるはずです。

「夫」や「妻」が、「私の描いていたイメージと違います」っていうのはよくあることです。どこかで“妥協”するより仕方がありません。あっ、違った、「調和」するよりありません(笑い)。

「追善」とは、個人や故人に「善の意味」を追加することではないでしょうか。(そういう表現しかいまのところ浮かびません)。いまある私が「在る」のも、父・母のおかげです。家族のおかげです。先輩・同輩のおかげです。師匠のおかげです。同士のおかげです。国家、先人の智者のおかげです。つまり、「四恩」のおかげです、と。

前出の御書のすぐあとで大聖人はこう仰せです。
「目連尊者が法華経を信じまいらせし大善は我が身仏になるのみならず父母仏になり給う、上七代・下七代・上無量生下無量生の父母等存外に仏となり給う、乃至子息・夫妻・所従・檀那・無量の衆生・三悪道をはなるるのみならず皆初住・妙覚の仏となりぬ」(御書1430㌻)。

「恩」を感じるのは、「善知識」に対してですから、その究極が、
「相模守殿こそ善知識よ平左衛門こそ提婆達多よ念仏者は瞿伽利尊者・持斎等は善星比丘なり、在世は今にあり今は在世なり」(916㌻)
なのでしょうが、いかんせん、私は、そこまでの境涯にまでにはなっていません(笑い)。

“田舎”育ちの私なんかは、近所の干渉が入りやすい処に育ちました。しかも両親が核家族化の走りの世代で、干渉がないことの方がのびのびと煩わしくもないとずっと思ってきたものでした。だが、どうもそうではないようです。
係(かか)わりが無ければ、その人のことをあれこれ考えずに済みますが、係わりがあることによって、その人を“敵視”しなくてもすむということが厳然とあるようです。“敵視”しない、つまり、「憤り」や「瞋」の心を出すことがないということです。「瞋り」が、ほかならぬ、自身の心を傷つけることは前述したとおりです。

人に「善」為すものは「利他行」です。「思い」とか、「口先」だけでは意味をなしません。「行」が一番です。
「施(ほどこ)せ」ということなのではないでしょうか。「我欲」を乗り越えるには、「他に施す」自身の骨格をつくるよりない、ということなのではないでしょうか。「利他」とも表現できます。放っておけば「我欲」に走ってしまうこの“畜身”とその「心」を一仏乗に向けるには、「施す」という骨格をつくるよりないということのようです。「仏道」というは、その道筋であるはずです。

どなたかに、「もう広宣流布はなった」という趣旨の投稿がありましたが、以下の点で賛同いたします。
創価学会の歴史は、社会の中にもう一つの“社会”をつくる「屋上屋」ならぬ、「屋内屋」をつくった一面があります。それは、既成の権威・権力に囲まれて虐げられていた民衆の解放、旧習からの脱皮へのチャレンジだったと言えなくはありませんか。
“貧乏人と病人の集まり”とも揶揄された(決してそうではありませんでしたが)、その「屋内屋」でも人が育ち、逸材が生まれ、その人材層も、むしろ社会を凌駕するほどの厚みになってきました。

そうなると、どうなるか。
社会と屋内屋との「垣根」がどんどんなくなります。
広宣流布が、妙法の流布だとするなら、妙法という「法」の社会への浸透がそのまま、広宣流布の完成だといってもいいはずです。屋内屋に社会の専門職が通途するようになれば、それはそのまま「広宣流布の形」ということもできるはずです。そうして現実的にも、そうなりつつあります。いや、なっているのかも知れません。

社会の専門職となるには、それはそれは「力」のいるものです。ライバルも一杯です。信念も、努力ももちろん不可欠です。その中で、一流の人物はつくられていきます。社会の中にも、自身の限界に挑戦して、その専門職の中で“金字塔”を建てた人は一杯います。間違えていけないのは、社会からの屋内屋への浸透ではなくて、屋内屋からの社会への浸透ということです。妙法の流布なくして、広宣流布とは呼ばないということです。「妙法」とは生命至上主義、人間主義です。

では、「実像」とは一体、どこにあるのかということです。「事実」の像とでもいうのでしょうか。違います。事実の像も、それを見るのは、“イメージ”であることに変わりがないからです。「垂迹」です。
ちょうど、人間革命を虚偽とみるのか、真実と見るのかというのと、よく似ています。いつかあった「事実と真実」の違いです。現象としての「事実」の奥の「真意」までを汲み取るから、人間革命の戸田先生の「真実」が明らかになります。それを虚偽とは言いません。「迹仏」と「本仏」の違いと置き換えてもいいかもしれません。

「偶像」と「実仏」の違いも、実はそんな“処”にありはしないのか、ということです。「偶像」のその奥にある「実仏」を見るのは、「智慧の領域」であるということです。「迹仏」と「本仏」の違いも、形の上の「仏」のことではなく、それを観る凡夫(=人間)の中にある「智慧」ということにならないでしょうか。
そして、偶像としての「師匠」の認識を乗り越えるところに、“自身の発迹顕本”はありはしないのでしょうか……。
(おわり)