投稿者:螺髪 投稿日:2017年 3月 1日(水)21時10分35秒   通報
「生命論」の視角からの「諸精霊」と「偶像」への考察 <上>
生命論の視角から、「諸精霊」や「偶像」という言葉に迫ってみたいと思います。

「諸精霊」とほぼ同一線上にあるのが「回向(えこう)」です。「回向(えこう)」は、「自らが仏道修行で得た功徳を回し転じて衆生に振り向ける作業」――そう、何回も教わってきたはずです。なのに、儀式としての「葬儀」や、「追善勤行会」がいまなお仰々しく行われたりするのは、一体、どういうことなのでしょう。「追善勤行会」は、ご供養の“金集め”が目的なのでしょうか(笑い)。

「生」と「死」は、どんな人間にとっても重要な命題ですから、人の一生を締めくくる「葬儀」を大切にすることは、それはそれで大事なことだとは思います。だが、「葬儀」や「追善勤行」を組織で重要行事であるかのように扱うことには、ずっと違和感を覚え続けていました。「これじゃ、“葬式仏教”への“先祖帰り”ではないのか」と。
もちろん、一緒に闘った同士や、身内に「追善」の祈りを捧げる行為は、決して否定されるべきものではないと思います。一方で、国家から宗教法人としての認定を受けた創価学会が、「礼拝室」を持ち、行事としての「追善の行事」を持つことは、“資格”を維持するという点で、欠くべからざるものであるということも認めます。

だが、この「部分」の必要性をあまり強調し過ぎると、幾多の宗教団体が陥ったように、伽藍(がらん)を護るだけの宗教になったり、偶像崇拝の宗教になっていってしまうのではないか、という危惧があります。現に、このところの創価学会もその色彩をどんどん強めていってしまっています。

「回向」(=延向)は、回転(えてん)趣向の意味です。菩薩五十二位に「十回向」というのもあります。それによって、自他ともの仏果を得るというのが、その本義です。
回向でよく引き合いに出されるのが目連(目犍蓮)です。釈迦十大弟子の一人で、神通第一と言われ、盂蘭盆経で「亡母が餓鬼道に墜ちたのを知り、神通力では救おうとしたが救えず、釈迦の教えに従って盂蘭盆供養<百種の飲食を衆僧に供養>によって救った」という説話(御書1428㌻)があります。今日の盂蘭盆会の起源だとされます。

生命論的にこれは、一体、何を意味するのかということです。
言葉を変えれば、諸々の精霊、つまり諸精霊とは一体、“何もの”なのだろうということです。
どこかの空間に浮かんでいるものなのでしょうか。

もし、それがどこかの空間に浮かんでいるものであるとするなら、それは、人を神秘の世界に招き寄せるだけのものになりかねません。基本的に、耳、眼、鼻、口、身体の五感で感じ取れるものしか、人は「在る」と認識できないからです。
最近の宇宙論を参考に、原子、あるいは素粒子の世界にまで思考が踏み込むと、五感で感じ取れるものだけが「すべて」だというにはわけにはいけなくなります。私たち人間の知覚をはるかに超える「存在」がこの宇宙には蔓延しているようだからです。エネルギーという「存在」ですら、通常、人間の知覚を超えます。しかし、だからといって、“神秘の世界”だけに頼るのは「人間の智慧」の放棄です。

「追善」という言葉に留意したいと思います。
精霊が故人を対象としたものであるとするなら、それは個人の、故人に対する認識や、イメージだといえないでしょうか。
別に、故人でなくとも、イメージは誰人にも抱くものです。個々人や、故人がイメージとして、その人の中にあるということです。そしてイメージが他の人にも行き渡った集合が「諸精霊」と称されているに過ぎない、と捉えたらどうなのでしょうか。それは、宇宙をどう見るか、あるいは社会をどう見るか、押し並べて自身の「外界」をどう見るかということと、さして変わりはありません。
すべて、「己心の法」というわけです。いかなる人間も五陰(色・受・想・行・識)を持ちますから、認識としての「想」や、意志という意味での「行」、そしてその全体の「識」だとも言えます。

詳細は省きますが、宇宙といっても、地球といっても、あるいは国家、社会といっても、科学や社会、国家、人類の大多数の集合のものの見方、つまり「知見」であることに変わりはありません。その「知見」を「己心」が取り入れているだけ、と言ったら言い過ぎでしょうか。言ってみれば、「己心」や、「己心の集合」が描く「外界」の姿です。

精霊の話に戻ります。
人それぞれに、他者のイメージ、意志、認識があります。自分の中にあるのです。個々人のそれぞれが全然、別のイメージであるかも知れません。思い思いの認識でその他者を観ます。回向もします。その認識と回向が、諸精霊追善の実像といっていいのではないでしょうか。
人を憎めば、憎むその人の心が荒れます。憎しみは「愼り」ですから、内に向かえば「地獄」でしょうか。
ある人は、地獄の知見で他者を覗き込み、ある人は貪りの知見で覗き込み、ある人は菩薩の知見で覗き込む。何かを見る「知見」というのは、その意味で「意味付け」と同じものです。その「意味付け」も、人類が外界を見る「知見」もまた、“十界本有”だと言えます。
ということは、もしかすると、諸精霊追善というのは、故人に「いい意味」を与えることではないのか、と思ってみたりもしてみるのです。つまり、「追善」です。「菩薩の知見」によっていい意味で「外界」を見る、「仏の知見」でいい意味で「外界」を見る、ということと同じなのでしょう。あくまでも、「観る」側の主観です。大体、諸精霊が「喜ぶ」なんてことは、現実には確認がとれないことなのですから。
「追善」は、それによって、ほかならぬ、追善する側の人に「安穏」がもたらされることが、大きな特徴なのではないでしょうか。追善した人が安穏になると信じて追善することが、同時に、追善する側の安穏ともなる――ここに「追善」の大きな意味がある、つまり、「追善」は「善」の意味の「意味付け」の追加と観ることができるわけです。

池田先生は、94年3月20日の第76回本部幹部会で「回向」について、こう語っていて下さっています。
「広宣流布に生き抜く人生――『生の仏』、すなわち『現世の成仏』は、ここにしかない。その功徳を無量の先祖、無量の子孫、眷属(けんぞく)に回(まわ)し向けていく。自身が仏道修行得た功徳を、力を、勤行・唱題の金色(こんじき)の光を回し向けていく。これが回向の本義である」と。

(つづく)