投稿者:赤胴鈴之助 投稿日:2017年 2月16日(木)17時35分5秒   通報 編集済
『いまの一瞬に無限の生命を生きる』

テヘラニアン  神話は、身分制度のような圧制の正当性を示しうるイデオロギーにもなり
うるのです。
一見、「霊魂」を説かない仏教とは、対照的に、アブラハム系の宗教は、人間は肉体と
霊魂を具備しているとしています。そして、肉体は滅びるけれども、霊魂は永遠に不滅で
あるとされているわけです。
しかし、最初に申し上げたように、言葉の表面上の違いにもかかわらず、この教えの深
い意味は、仏教の輪廻説が深いところで意味するものと、通じていると思います。
善と悪の行動が審判される日まで、人間の魂は煉獄のなかで運命の決断を待つのです。
この神話は私たちが自分の行動によって、いまここで天国や地獄、幸福や苦悩の生活をす
るということを言っています。

池田  「不死」とは、本当に死なないのではない。苦しみからの自由です。それが輪廻か
らの解放です。その考えは『法華経』で最もよく現れます。
『法華経』の第十六番目の章は、その名も如来寿量品—いうなれば「如来の永遠の生
命の章」です。この章では、釈尊が久遠の昔から仏であったと述べられます。

テヘラニアン  もちろんそれは文字どおりではなく、「象徴的意味」を考えねばならな
い言葉ですね。

池田  ええ、日蓮大聖人はこの法理を「本有常住の仏なれば本の儘なり是を久遠と云う
なり」(『御書』七五九頁)と述べています。
つまり、「久遠の仏」とは過去にさかのぼって見つかるものではない。仏道修行によっ
て自らの心のなかに”いま”顕れてくる人間本来の生命なのです。

テヘラニアン  よくわかります。人間は永遠なる自然の一部であることをあるがままに認
識できれば、死の恐怖や欲望に結びつく種々の不安から自由になるのです。
そして、そのとき、人は、他者への奉仕に、よりよく献身できるのです。この献身のな
かでは、他者の幸福が自身の幸福になるでしょう。
私たちがそれを永遠の精神ヤーヴェと呼ぶにしろ、キリスト、アラー、ブッダと呼ぶに
しろ、この永遠性に加わるとき、私たちも不滅となるのです。

池田  釈尊は「(信仰実践を)つとめ励むのが不死の境地である。怠り怠けるのは死の境
涯である。つとめ励む人は死ぬことは無い。怠り怠ける人々は(生きながら)死者のごと
くである」(『ダンマ・パダ』第二一節)と語っています
仏教の生命観に共振する魂を有していた詩聖タゴールは謳います。
「生命をふんだんにほどこすほど
生命はますますほとばしり、
もはや生命は尽きないだろう」
(森本達雄訳「滝の目覚め」『タゴール著作集』第一巻)
仏教の生死観は、生死を永遠と見ます。ただし、それは霊魂不滅説ではありません。
いまの一瞬に無限の生命を生きることができるという意味です。

テヘラニアン  いま、会長と話をしていて、二人の女性のことを思い出しました。
ダイアナ妃とマザー・テレサです。
両人は自身を超える偉大な目的に生を捧げられ、世界の人々の心を揺さぶりました。
ダイアナ妃は、多くの慈善事業の率先はもとより、恐るべき対人地雷の撤去運動に勇気ある
行動を示し、未来の英国女王たる身分から、世界の「心の女王」へ変身しました。
マザー・テレサは、ダイアナ妃の若々しい魅力と体力とは対照的に肉体は虚弱な女性
でありながら、インドの貧しい人々のなかに入って逓信し、ノーベル平和賞を授けられま
した。
この非凡な二人の女性たちは、それぞれの人生の可能性を全うすることによって自身の死を
克服する精神の生きたる模範です。
それぞれに、怠惰な無関心や優雅な孤立の人生を生きつづけるのではなく、他者たちの
苦を和らげる苦悩の人生を選択した「王妃」と「聖者」であると追憶され、永遠に世界中
の人々の心に生きつづけることでしょう。
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解釈がなければ、意味が深すぎて理解出来ない文です。
《いまの一瞬に無限の生命を生きることができるという意味です》。

一念三千を平たく申されているのかな・・・。
悟ってないからねぇ、難しいよ。とほほ・・・( ;∀;)

《仏道修行によって自らの心のなかに”いま”顕れてくる人間本来の生命なのです》。
これなら、今顕れてくる十界の生命・・・仏界が本来の生命だと理解しました。