投稿者:寝たきりオジサン 投稿日:2017年 2月 6日(月)09時10分19秒   通報
【第4回】池田先生と西大阪総県

聖教新聞2009年7月24日

「常勝関西」発祥の地

白木の「2月闘争」
1952年(昭和27年)。あの「2月闘争」の大旋風が画風・蒲田で巻き起こってい
たころである。大阪市西成区。地下鉄「花園町駅」の薄暗い階段を、長身の男が、
のっそり上がってきた。プロ野球選手の白木義一郎。地図を記したメモに目を落
とす。練習の合間をぬってバラック街を折伏に歩く。2歳の娘・以知子や妻の文
《ふみ》は、遠く東京に置いてきたままだ。

この年、東急フライヤーズから阪急ブレーブスヘ。在阪球団へのトレードを機に
、蒲田支部の白木は「大阪支部長心得」になった。単身、落下傘で飛び降りるよ
うなものである。さすがの剛球投手も心細い。「義っちゃん、これは御仏意《ご
ぶっち》だ。大阪を頼む。一緒に75万世帯をやろう!」どんと背中を押してくれ
たのは、蒲田の池田大作支部幹事だった。

「大阪」だ。「関西」だ。ここを強くしなければ75万世帯は達成できない。その
突破口を白木に託した。本気の一人をつくるしかない。1月末、東京から夜汽車
で大阪へ発つときも、固い握手をかわして見送った。「2月闘争」への闘志が白
木の胸に火を点した。やがて、それは大阪で赤々と燃え上がる。「花園町駅」を
出て、白木は目的の家へ大股で急いだ。紹介された山本福市は、妻が病弱で悩ん
でいた。仏法の功力を直球勝負で語った。

「ほな、わたしら、やりますわ」52年2月17日。まず下町の西成で、関西の折伏
第1号が実った。西成の花園旅館55年(昭和30年)12月に関西本部が誕生するま
での間、しばしば本陣となった拠点があった。花園旅館。山本宅の目と鼻の先、
西成を南北に走る南海電車の線路近くに立つ。電車の音が窓ガラスにピリピリと
響く。木造の二階屋たった。

宿の主が日蓮宗(身延派)の信者だった。戸田会長が声をかける。「ご主人、身
延なんかやめなさい。この信心をすれば、いつの日か、必ず大きなビルが建ちま
す」あまりの確信に、そばで見ていた従業員が後で入会を申し出る。たちまち噂
が広まった。「戸田先生が花園旅館にいてはるから、誰でも連れていきや!」生
活苦、経済苦、病苦。それらが奔流となり、花園旅館の小さな一室に押し寄せた。

不妊で悩む会員に真正面から言い切った。「子どもができなくて悩む親もいる。
一方で、子どもを食い物にするような親もある。この信心をやりぬいて、宿命を
転換するしかない!」青年部の池田室長への薫陶は厳しかった。──ひとり室長
が帰京する日。荷造りを終え、部屋へ挨拶に来たところ、いきなり会長が問いか
けた。「大作」サッと居すまいを正す。「いま臨終になったら、従容としていら
れるか」「ハイ!」間髪を入れず、鋭い返事。大阪では常に「臨終只今」の精神
だった。ある日。戸田会長を囲んだ懇談の折である。

「誰だ、そいつは!」激しい剣幕で一人を指さした。不審げに目をぎょろつかせ
ている。他宗の信者が紛れ込んでいた。ひそかに様子を探りにきたものと見えた。
「そこの拝み屋!ここは貴様のような者が来るところではない!」一喝されるや、
脱兎のごとく逃げ出した。返す刀で居ならぶ幹部に檄が飛ぶ。「なぜ分からなか
ったのだ!戦いの中でこそ、邪悪を見抜け!」花園旅館は、実戦の道場だった。

庶民の町・西大阪大阪湾へ流れる木津川を、市民の足の渡し船が、ゆったりと進
む。湾の奥にある西成、大正、住吉、住之江。「常勝関西」の発祥の地・西大阪
は”ド庶民の街”である。隅々まで池田室長の足跡が刻み込まれている。住吉区の
宮下伊平。戸田会長の気迫が今も忘れられない。「折伏は、この戸田がやる!ほ
かにやりたい人間は願ってついてこい。それでこそ戸田の弟子だ!」その会長に
一番弟子がいると聞いた。さぞ強面の人やろう……。後に会合で室長と出会い、
息を呑んだ。

何とも爽やかな好青年ではないか。「私か舞を舞いましょう!」生れ故郷をあと
にして……大きく振りあげた腕《かいな》に、射貫くような眼《まなこ》。キリ
ッと結んだ口元。ああ……。やっぱり戸田会長と同じや。同じド迫力や!。西成
区の西島夏子。57年(昭和32年)2月ごろ、会合の帰路、池田室長と一緒になっ
た。「聞きたい事があったら、何でも遠慮せずに言ってごらん」「実は主人の仕
事が忙しくて、地区幹事として活動できないことに悩んでいます」きっぱり言い
切った。「信心は時間で決まるのではありません。心で決まるのです。

たとえ30分でも、広宣流布のために真心を込めて戦うのです。あとは御本尊に、
しっかり祈る事です。30分が3時間に値する戦いになります」ハッとした。誰
よりも時間がないのは室長やった。笑顔で言われた。「必ず時間に困らない境涯
になります。安心して活動に励まれるよう、ご主人に言ってあげてください。広
宣流布のための願いは絶対、叶います」住之江区の粉浜《こはま》(当時は住吉
区)。古い軒が連なる住宅街に、ひときわ目立つ白壁があった。

企業の重役の家だった。56年(昭和31年)5月の昼下がり。室長が上がり框をま
たいだ。20人ほど集まり、会合が開かれていた。まだ会場には十分なスペースが
あった。組長と組担に目を向けた。「どれくらい折伏をやるんだい」「地区一番
になります」。思い切って背伸びした。室長が笑って、手を横に振った。「地区
一や大阪一ではダメです。目指すのなら、日本一!」翌年、室長は再び同じ会場
へ向かった。1年前と熱気がまるで違う。

広い部屋の隅々まで、住之江や住吉などの会員でいっぱいだった。「この家も、
だいぶ狭くなったねえ!」一人一人に視線を送りながら、新しい指針をピシリと
打ち込んだ。「一に団結。二に団結」ひときわ語気を強めた。「三に、団結です
!」関西本部の勤行会に参加した大正区の前川ハル子。威勢よく立ち上がった。
「大阪の戦い」の最終盤である。室長から声をかけられた。「あなたは自分が元
気な間に、折伏を何世帯やるか。ここで私と約束しよう」あっ。計算している余
裕などない。

「に、200世帯やります!」

にこりと相好を崩した。「20年、信心を真面目にやれば、世界にだって行ける。
私も世界中へ行くからね」その約束を果たした前川。いま、90歳の卒寿を超え、
室長が言ったとおりの境涯になった。何でも一番になれなんと気丈な方か。西
成区の小林節子は身が引き締まる思いがした。73年(昭和48年)12月。中之島
の公会堂での本部総会。小林は池田名誉会長の母堂・一さんと共に会場に着い
た。半年前、東京の大田を訪れた際に交流を結んだ。

総会は長時間に及んだ。端座したまま身じろぎ一つしない。じっと名誉会長の言
葉に耳を傾けていた。「ぜひ西成にも、うかがわないと」来阪すると、小林の自
宅や近くの聖教新聞の販売店までわざわざ足を運び、丁重に挨拶した。後々《の
ちのち》まで西大阪での思い出を振り返った。76年9月の逝去の際。名誉会長か

ら小林のもとに揮毫が届いた。「母が最も関西にお世話になり最も関西の友が大
好きであり最も思い出をつくって下さったことを謝しつつ」母堂を偲び、西成文
化会館の庭に「一桜《いちざくら》」の樹が植えられた。後に名誉会長は、母堂
の名の由来にふれている。「母の両親が『一番幸福になるように。その子どもた
ちも何かで一番になり、社会に尽くせよ』という願いをこめて『一』と命名した
んです」何でも一番!池田家の心は、最も縁《えにし》深い大阪の心意気でもあ
る。

2008年9月。本部幹部会で新リーダーが紹介された。関西婦人部長の山下以知子。
白本義一郎が新天地の大阪へ来たとき、2歳だった娘である。西大阪の婦人部長
を務めたこともある。スピーチの中で名誉会長が懐かしそうに声をかけた。「あ
の子が、こんなに立派になったんだもの。お父さん、お母さんも、きっと喜んで
いるよ」壇上で名誉会長に誓った。「関西の同志とスクラムを組んで、必ず完勝
します!」彼女の名前は以知子。母堂は一さん。「大阪の戦い」の金字塔は1万
1111世帯。関西は、いつも一番で勝つ!