投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月10日(火)16時43分44秒  

一劫とはどれぐらいの時間かというと、ほぼ永遠に近い時間です。
仏陀というのはそのような永遠に近い時間を生きながらえることができると釈尊は言った。

しかし阿難は聞き流した。

そこで釈尊は、再び
「阿難よ、悟りを開いた仏陀というものは、もしも望むならば、
一劫のあいだこの世にとどまることができるのだよ」――。

阿難はなにも言わなかった。
それは悪魔のせいだ――と、仏典は再び同じ説明をしています。

釈尊はさらに同じ言葉を繰り返した。

「阿難よ、悟りを開いた仏陀というものは、もしも望むならば、一劫のあいだこの世にとどまることができるのだよ」――。

同じ言葉が三度も繰り返されれば、たいていの者は気づくはずだ。
世尊は、明らかに「なにか」を言われようとした――と。

まして阿難は、釈尊の侍者であり、何十年も世尊と行動を共にし、釈尊の気持ちを熟知し、
理解し、世尊の身のまわりの世話をしてきた阿難である。
釈尊のその言葉の意味がわからなかったはずがない。

それなのに阿難は聞き流してしまった。
まさに、悪魔に魅入られていたとしか思えない。

阿難は大きな失敗をした。
「世尊よ、どうか世尊はいつまでもこの世にあって、われらと衆生を導いてください」と、
彼は釈尊に懇願すべきであったのだ。

だけども彼はそれをしなかった。三度にわたる釈尊の言葉を、うっかり聞き流してしまった。
阿難はこの出来事をのちに釈尊亡きあと、教団の第一の長老であった迦葉に叱責されています。

しかし、いくら叱責しようが、もう遅い。阿難の失敗は許されない――。

釈尊は、同じ言葉を三度反復したあと、阿難を退けられた。

「阿難よ、そなたは下がってよろしい」
「はい」

と言って、阿難は素直に下がっていった。

釈尊は一人になった。そこに悪魔が登場する。釈尊は、一種の淋しさを感じていたのかもしれない。

そして悪魔が釈尊に囁きかける。

「どうだ、もうよいではないか」――。

悪魔の言葉は、感情的に釈尊に訴えかける。

「四十数年前、お前が悟りを開いて仏陀となったとき、わしはお前に進めた。さっさと涅槃に入れと。たいていの聖者がそうする。
せっかく聖者になったのに、愚かな人間と接触して汚れてしまえばなんにもならない。

けれど、お前は変わり者であった。お前は人々に、真理を説き聴かせると言った。
わしは《よせ》と言ったが、お前は布教をはじめた。
あれから四十余年、お前の伝道も実りがあったではないか。

大勢の弟子たちがいる。大勢の在家信者がいる。彼らはお前を理解した。
教団も基礎がしっかりとできた。もう大丈夫だ。お前がいなくても、弟子たちはちゃんとやっていける。
だから、お前は涅槃に入れ。お前も疲れただろう。涅槃の世界で静かに休息するがよい」――。