投稿者:まなこ 投稿日:2016年12月25日(日)11時07分49秒   通報 編集済
【池田】 イエスとフランチェスコが、ともに“依正不二”の信奉者であり、賛美者であったとの御見解は、じつに興味深いものです。というのも、私は、公害を絶滅する方途は“依正不二”の理念による以外にないと信じているからです。この理念に基づく運動をどのように展開していくか――これによって初めて、種々の住民運動にみられる庶民大衆のエネルギーが、さらに大きな潮流にまで高められるものと考えるのです。現代文明の思考法自体を変革することが、どうしても要請されますね。

【トインビー】 もし人類が自滅を回避しようとするのなら、いまこそ自らが生み出した汚染を一掃し、もうこれ以上発生させないようにしなければなりません。私は、これは世界的な規模での協力によってのみできることだと信じています。土地や湖沼や河川の純度を回復させるだけなら、一国による汚染防止対策でこと足りるかもしれません。しかし、人類の環境を居住可能にしておくことへの最大の脅威は、大気と海水が汚染してしまうことです。たとえば、飛行機が成層圏に有毒ガスを振り撒き、船が海洋中に有毒廃棄物を捨てることによって、病気が蔓延する恐れもあります。
今日われわれは、汚染が人類の生存を脅かすことに気づき、貪欲を規制せずにはこれを解消できないことにも気づきました。しかし、その場かぎりの便宜主義をもってしては、その解消を促すに十分な刺激とはなりません。欲望の中毒にかかっている人々は、近視眼的な考え方をしがちです。諺にいう「あとは野となれ山となれ」なのです。
もちろん、そのような人々でも、自分の貪欲を規制できなければ、結局は子供たちを滅亡に追いやることを承知しているでしょう。彼らも、自分の子供は可愛いでしょう。しかし、そうした愛情があってもなお、彼らは子供の将来を守るために現在持っている富の一部を犠牲にしよう、という気にならないかもしれません。
私は、現代の先進諸国の人々に、“依正不二”のため、いますぐにでも犠牲を払おうという気を起こさせるものは、もはや宗教的回心以外にないと信じます。ただし、ここでいう“宗教”とは、最も広い意味での宗教です。私は、“依正不二”の理念が、道義上の義務をともなう宗教的信念として、全世界に受け入れられるよう期待しています。また逆にいえば、フランチェスコが神道の信者からは神として、仏教徒からは菩薩として迎え入れられるよう望むものです。

【池田】 私は仏教の信奉者ですが、フランチェスコは十分に尊敬に値する聖者であると感じています。イエスやフランチェスコは、仏法の概念でいうと、菩薩界に位置する人々です。すなわち、菩薩とは、慈悲をもって世のため、人のために奉仕する、人間生命の状態なのです。

【トインビー】 貪欲を動機として技術が生み出した諸々の結果から人類を救うには、私は、あらゆる宗教、哲学の信奉者たちによる世界的な協力が必要だと信じています。また、そこではヒンズー教徒、仏教徒、それに神道信徒がイニシアチブをとることを望みます。
ユダヤ系宗教の信徒たちは、その排他性、不寛容性という身動きのとれない伝統によってハンディキャップを負っています。これは、一神教であることからくる報いの一つです。これに対して、ヒンズー教徒や東アジア諸国民の間では、互いに異なる宗教の信者同士が包容し合い、尊敬し合うという伝統があります。日本でも、仏教徒と神道信者の間に積極的な協力がみられました。これこそ、貪欲という根を断ち切って汚染を取り除く、協調的な世界的努力に必要とされる実践であり、精神です。