投稿者:寝たきりオジサン 投稿日:2016年12月18日(日)13時57分30秒   通報
パスカル・オリベラ―SGI-USA芸術部長―
( 1998年9月13日~15日、フロリダ自然文化センターで開催された
「SGI-USA文化部大会」での講演)
多くのSGIの芸術家たちと話す機会に気付いた
ことは、問題の多くは”自己不信”から起きているということです。ほとんどの
芸術家は、自信に溢れた楽観主義者なのですが、だれもが自分自身を認められ
なくなってしまうことが、よくあります。私自身、彼らのように、”自己不信”

との戦いの人生でした。私は、すでに1年生になる前から、芸術家になりたい
という希望を持っていました。私は、ヴィジュアルアート、舞台芸術、もちろ
んスパニッシュダンス――今の私の仕事ですが――など、あらゆる形態の芸術
に惹かれていました。運良く、1年生の担任が、私の才能を発見してくれまし

た。先生は、少年期の私の芸術への関心を、育み、支え、励ましてくれた最初
の人でした。両親は、後に私が芸術の仕事で生活するようになるまで、私が芸
術をやりたいなどとは、本気にしませんでした。実のところ、両親は私の創造
性の芽を摘み取ろうとしていました。私は登校拒否になり、5年生は落第して
しまいました。それで初めて、両親は私が本気で芸術を志していることに気付

き、ダンススクールと演技クラスに通うことを認めてくれました。それでも、
ばかな息子だと思っていました。こんなことを、言われたのです。「おまえじ
ゃ、物にはならん」「芸術なんて、愚か者のすることだ。おまえは、ばかだ」
「あきらめて、役に立つことをなさい」「芸術なんて頭を悩ますことばかりだ
し、腹の足しにはならないぞ」「おまえには、無理だ」やがて、クラスメート

が、私が、フットボールも野球もせずに、ダンススクールと演技クラスに通っ
ていることに気付きました。私は、彼らにもばかにされました。「ダンスなん
て、女みたいだ」「ばぁーか!」「近くに寄るな」少年期に浴びせられた、こ
んな罵声が、私の精神形成に多大な影響を与えました。このやる気を失わせる

力――何年にもわたる否定の言葉、そして、悲観的な環境――は、私を、一流
の?”自己否定者”にしました。有名なスパニッシュ・ダンサーのジョセ・グレ
コが故郷のオハイオ州クリーブランドで公演したとき、私は何度も彼と会うこ
とができました。その結果、彼は私に関心をいだき、両親にスペインでの修行

を勧めてくれました。もし、そうすれば、私に彼の舞踊団のオーディションを
受けさせてくれると言うのです。彼のもとで仕事をする希望を胸に、私は、ス
ペインでのスパニッシュダンスの修行に耐えました。スペインから帰り、私は
、ジョセ・グレコ・スパニッシュ・バレー団のオーディションを受けました。

結果は、踊りを見せるまでもなく、たった一言で終わってしまいました。「君
は、私の舞踊団にとっては、背が高くなりすぎた」愕然としましたが、私は否
定されることには、慣れっこになっていました。みんなが言ったように、私は
モノにならなかったのです。「僕がばかだった。みんなの言うとおりだった。

たしかに、芸術なんて飯の種にならない。さいわい、たいして悩むこともなか
ったし、まだ、飢えてもいない。でも……やっぱり、否定された」何度も何度
も否定され続けた結果、私の”自己否定”は芸術?の域に達していました。(後
に私は、ジョセ・グレコ舞踊団のリードダンサーになりました。私が日蓮大聖

人の仏法と出会ったのは、彼の舞踊団にいたときのことです)18歳になって、
私は、芸術での成功を探しに、ニューヨークへと旅立ちました。エージェント
を見つけることが必要でした。有名なウィリアム・モーリス・エージェンシー
のことを耳にしたので、行ってみました。受付の方に気に入られ、一人のエー

ジェントに面接を受けさせてもらえました。彼は本当に私のことを気に入って
くれ、7年間の独占契約へのサインを求められました。たまたまだったのです
が、ウィリアム・モーリス・エージェンシーは、ミュージカル「サウンド・オ
ブ・ミュージック」のキャスティングをしている会社で、メアリー・マーチン

も所属していました。エージェントは、私がニューヨークで演技と歌とダンス
の勉強を続けられる費用を稼げるようにと考え、そのミュージカルの役に就け
ようとしていました。彼は、私のレールを敷いてくれたのです。私は、天にも
登る気持ちでウィリアム・モーリス社を後にしました。足はほとんど、地面か

ら浮いていました。しばらくして、私は思いました。「それはそうと、僕にこ
の役がつとまるだろうか?早すぎるんじゃないか?まだ、芸術故の悩みも飢え
も経験していない。ほんとは役不足だということがばれたら、どうしよう?僕
がばかだった。ものになるわけが、ないじゃないか!」”自己不信”で頭の中が

いっぱいになり、私は、もう二度とウィリアム・モーリス・エージェンシーに
は行かず、呼び出しにも応じませんでした。このような機会は何度もありまし
たが、そのたびに私は逃げてきました。私の行き着いた先は、サパークラブで
のミュージカル・レビューでした。クラブのオーナーは重度のアル中患者でし

た。私には居心地がよく、約2年間を過ごしました。1968年、私は、仏道修行
を開始しました。「御本尊と同志の人を誹謗してはならない。誹謗すれば、
罰が出て不幸になる」ということを、入会してすぐに聞きました。ちょっとし
たことがあって、私はそのことをすぐに納得しました。心から人生の勝利を望

んだので、その信心の基本を守ろうと、必死に頑張りました。でも、その時は
、”自己否定”の話は、聞きませんでした。私は一生懸命に戦い、夢を実現して
きました。でも、心の中では、いつも思っていました。「僕は、立派なメンバ
ーじゃない」「いい奴じゃないことが、ばれませんように」「僕は悪いリーダ

ーだ。愚か者だとばれるまで、時間の問題だ」相変わらず”悲観主義者”は変わ
らなかったのですが、いろいろな仏道修行に励んできました。(続けられたの
は、南無妙法蓮華経の偉大な功力のおかげです)でも、心の奥底は、幸福でも
自由でもありませんでした。仏法者としての25年間で、私はたくさんの壁を

乗り越え、何度も転機を迎えました。すべての夢――仕事上の夢、夢に描いた
結婚、そして家庭の実現、不治の病の克服、尊敬される幹部になること――は
実現されました。でも、ただひとつ変わらなかったのは、いまだに”悲観主義”
の牢獄に囚われていたことです。やがて、大きな転機が訪れました。その壁は

あまりにも巨大だったので、今度ばかりは御本尊でも無理だと思いました。自
殺も考えました。もう、題目なんか上げられないと、思いました。(それまで
、私は題目を上げなくなる人の気持ちが理解できませんでした。しかし、この
袋小路に入って、はじめて自分が同じ状態になってしまいました)