投稿者:寝たきりオジサン 投稿日:2016年12月18日(日)14時01分6秒   通報
幸運にも、私は、勤行に関しては真面目でした――今でもそうですが――の
で 、この恐怖の時期にも勤行は続けていました。時折、意識が朦朧とした中
で、 題目を上げていることがありました。麻酔にかけられたような状態でし
たが、 私は上げ続けました。そして、イケダSGI会長の指導に出会ったの

です。「 誰にも、”元品の無明”――生命の本質にそなわる悪――という、成
長の妨げとなるものを持っています。元品の無明を打ち破れば、すべては、
劇的に開けて 行くのです」(1997/9/12WorldTribuneP.13)※和文英訳を和訳
この時、私は 、「再び挑戦しよう!自分に挑戦して、”元品の無明”と対決す

るんだ」と決意を固めました。 イケダ会長は、仰っています。「決意が変わ
れば、すべては、望む方向へと動いていきます。勝利を決意した瞬間、身体
中のすべての神経と器官が勝利の方向へと活動を始めるのです。反対に、『
不可能だ』と思えば、その瞬間、身体中の細胞が敗れ、戦いを止めてしまい

ます。そして、すべてが敗北へと動き出すのです」(1997/7/11WorldTribune
P.14)※和文英訳を和訳 題目を上げぬいた末に、私の元品の無明と人生の破
壊衝動の根本は、”自己否定”と”自己不信”に発することに気が付きました。
私は、自分自身の悲観主義を克服しようと、決意しました。3週間にわたっ

て、私は、心の中に浮かぶ悲観的な思いを追い出し続けました。何か悲観的
な考えが浮かぶたびに、親の仇に向かうような思いで戦いました。2日間、
自分自身と戦い続けた後、私は、 本来の自分を取り戻したように感じました
。真実のアイデンティティーを取り戻したのです。「ありのままの安穏な生

命状態を取り戻した、戦いは終わった 」。そう、思いました。その時、私の
人生の真中には”自己不信”があったこと 、そこに私は安住しながらもトラブ
ル続きであったことに気が付きました。この時の壁にぶち当たり、そして本
来の自分自身に戻れたことは、私の大きな転機でした。そして、それは、生

涯をかけた人間革命への挑戦への第一歩だったのです。 私は、その挑戦を、
「自分を好きになる」という、一番難しい訓練から始めました。私は自分自
身に、「自分が好き。愛している」と、一度も言ったことがありませんでし
た。私にとっては、あまりにも気恥ずかしいことだったので、 自分自身を、

部屋の隅に隠れている――泣き叫び、ぶるぶると震え、痛みに苦しむ――少
年であるとイメージすることにしました。私は、この少年(自分) を抱きし
め、こんなふうに語りかけているのをイメージしました。「もう二度 と、(
悪口を言って)君をいじめないよ。二度と、誰にも悪口を言わせない。世界

中で、一番幸せにしてあげる。泣かせないし、悲しませるようなことはない
よ」私はこれを、週に一度、2時間実行しました。悲観的な考えが頭に浮か
ぶたびに、この少年のイメージが思い浮かび、私は少年との約束を守りました
。人が私を非難しようとしても、私は、それを放っておかなくなりました。

また、その間、日記も書き続けました。そこには、自分や人に対しての、否定
的で、とても聞かせられないような感情を書きまくりました。何があっても
、 1年間、1日に3ページのペースで書きました。もはや否定的なことが書
けなくなるまで、書きました。書き続け、出し続けました。イメージの少年

は、幸 せで、安らかになりました。”悲観主義”を、書くことによって、そし
て唱題で 、自分の中から追い出し、自分自身をきれいにしたのです。時には
、経験したことのないような否定的な状況になったこともありますが、すで
に追い出した “自己否定”の思いが出てきたことはありません。完治したので

す。 私のことを、完璧な人間とは誤解しないでください。いまだ、人間革命
の途上にある人間です。いまだに、悲観的になったり、すべてに批判的にな
ることも あるかもしれません。以前と違うのは、いつでも御本尊に立ち返っ
て、問題を解決するようになったことです。もはや、問題を引きずるような

ことはありません。 先日のことですが、組織の人事のことで、とてもガック
リときたことがあります。まるで、胃を蹴り上げられたような感じでした。
しばらく、悶々としていました。御本尊の前に身体を引きずるようにしてた
どり着き、苦しみながら、 題目を上げに上げました。そして、気が付いたの

です。「これは、たまたま起こったことではない。試されているんだ。これ
は、信心を深め、成長するチャンスなんだ」心のそこからの祈りでした。数
週間後、状況は一変し、思いもしなかった理想的な環境となりました。実は
、15年間、この問題で悩み続けていたのですが、すべては私の信心の姿勢

から起こっていた問題でした。 今私は、心のそこから、本当に自由で幸せだ
と言うことができます。人生の中で起きたすべてのことに、なんの後悔もあ
りません。私は、自分では気付かずに”自己不信”の中に安住している芸術家
たちを、ただただ助けてあげたい気持ちです。 誰もが、いろんな経験を経て

、”自己不信者”となります。特に、創造的な仕事をしている人にとっては、
ありがちなことです。芸術家は、”否定の世界”に住 んでいます。「背が高す
ぎる」「もっと身長があれば」「顔が良すぎるんだよな」「美形が欲しいん
だ」「若いなあ」「年食いすぎてんだよ」「作品が現代的、抽象的だ。ここ

じゃあ売れないよ」「写実的すぎるよ。もっと、現代的で 、抽象的ならなあ
。他所をあたってみてくれ」「ライターを探しているなんて 、いったい誰が
言ったんだ」「バイトは続けておいたほうがいいよ」「”Z”( アルファベッ
トの最後)マークの山に積んどけ!つまらんことで、いちいち俺を呼ぶな」

「弾いてくれた交響曲を、私は知らないんだが」「残念だが、素人っぽいの
が欲しいんだ」「おしいな。もうちょっとデキればなあ」「うーん。 ちょっ
とデキ過ぎだなあ」 「採用です」「僕が?まさか。まだまだなのに。全然苦
労してないのに。まだ 、役不足だ。他の奴らのほうが、向いている。僕より

ずっと、有能だ」以前、 芸術部の会合で、こんな質問を受けたことがありま
す。「地元の芸術部員に、 二人の女優がいます。同い年で、同じようなタイ
プなので、同じ役を受けに行っています。一人はとても才能があるのですが
、才能では劣るもう一人の方が 、いつも役についています。有能な方は、こ

の一年、一つも役がなく、生活にも困っています。どうして、こんなことに
なるのでしょうか?」私は、おそらくこんなことではないかと思います。い
つも役にありついている方は、こんな プロセスで物事を考えているのではな
いでしょうか。「寝坊しちゃった。でも 、私の持ち時間は、まだ始まったば

かりだわ。怖いことは怖いけど、ともかく行って勝たなくちゃ。