投稿者:まなこ 投稿日:2016年12月15日(木)08時33分44秒   通報
◆ 5 理性と直観

【池田】 物事を帰納法的に探究していく科学的理性と、演繹的に把握する直観は、互いに補完関係にあると私は思います。といいますのは、理性は、その前提として必ず直観が働くものですし、また直観が把握したものは理性によって正され、あるいは明らかにされます。また理性の鍛練が積み重なって直観智を啓発します。
また理性は、複雑な対象を単純な構成要素に分析する働きをします。これに対して、直観は対象を全体として把握し、直接その内部の本質に迫るものといえましょう。
このように、両者は互いに対立するように見えても、実際には人間の英知の二つの面であり、両者が相まって人間性を高めていくものと考えられますが、いかがでしょうか。

【トインビー】 人間が知覚によって得るデータ(既知事項)は、科学上の仮説における素材となります。仮説とは、こうして集積されるデータを、仮に説明づけるものです。したがって、仮説は、検証による裏づけを必要とします。この検証の手段は二つあって、そのいずれもが適用されなければなりません。
その一つは、理性によって試すものです。すなわち、その仮説が、他の諸仮説と相容れるかどうか、さらに、一般的にみて、暫定的ながらすでに認められている知識の全体系と矛盾しないかどうかをみるのです。
もう一つの検証手段は、その仮説が導かれる基礎となった一連の現象と、その仮説とを突き合わせてみることです。これによって、その仮説がそれらの現象を十分に説明し尽くしているかどうか、なかにはその仮説と矛盾する現象もありはしないか、ということをみるわけです。
ただし、どうみても、仮説の正しさが結論的、決定的に証明されるということはありません。これは明らかなことです。なぜなら、われわれがいかに一連の現象を網羅しようとしても、それが完全であるという確証は、どこにもないからです。
われわれは、将来のある時点において、当然その系列に入るはずでありながら、それまでは観察されたことがないといった現象に、気づくことがあるかもしれません。そして、この新たに観察された現象が、この一連の現象についてこれまで受け入れられてきた仮説的な説明と相容れないことが判明するかもしれません。そういう手に負えないケースが一つでもあると、それだけで、この一連の現象に関する仮説的な説明が信用を落とすに十分なわけです。
では、いったい、仮説の根源となるものは何でしょうか。仮説がわれわれに提起されるのは、知覚されるデータによってではありません。仮説はデータそのものではなく、データの説明なのです。仮説はまた、理性によって提起されるものでもありません。われわれの理性の働きは、仮説を検討したり批判したりはしますが、それを生み出すことはしません。理性は、その働きかけの対象となる仮説が現われて、初めて活動を開始するのです。理性と知覚とは、ともに精神の意識レベルで作用しています。 われわれに仮説を提起するものは、直観なのです。直観は、潜在意識の深層から湧き出て意識の中に入り込みます。意識そのものは、たんに潜在意識から直観を受け入れるだけで、直観を生み出したり、創造したりはしません。理性と知覚は、ともに非創造的なものです。人間精神の創造的活動は、直観によるものであり、その根源は潜在意識なのです。