投稿者:まなこ 投稿日:2016年12月16日(金)12時53分54秒   通報
【池田】 いまのお話は、人間精神の創造的活動についての、非常に明快な説明です。直観は、科学にせよ宗教にせよ、創造者たちにみられた偉大な精神の飛躍ともいうべき事象の源泉をなしています。理性は自ら何かを創造することはできず、事象を創造的に洞察するには直観智によらなければなりません。
ただ、直観は多分に主観的であるため、一歩誤れば独善になりがちなものです。したがって、直観が覚知したものがはたして正しいかどうかは、理性的認識によって検証されなければなりません。しかし、そこからさらに進んで、理性と直観とが互いに補い合うような認識の規範、いうなれば“直観的理性”“理性的直観”といったものが、求められてしかるべきではないでしょうか。
といいますのは、たとえばアインシュタインの相対性理論の発見にしても、ニュートンの万有引力の発見にしても、それ自体は偉大な天才の直観智によってなされたものですが、そこに至る前提としては、理性のあらんかぎりの力を駆使した思索があったわけです。そうした直観と、何らの理性の前提的努力のない偶然の思いつき的な直観とは、私は決して同列に扱うことはできないと思うのです。
直観によって得られた真理は、第三者にとってはまだこれから検証されるべき仮説であっても、このような理性のあらんかぎりの駆使の果てに直観智によって究めた人にとっては、それはたんなる仮説ではないでしょう。そして、そこに働いた直観は、たんなる偶然的な直観ではなく、理性的直観というべきものであったに違いないと考えるのです。

【トインビー】 知覚と理性はともに意識レベルで作用しますから、これによって、さまざまな人間が何を知覚しどう推論しているかについて、互いに記録を比較することができます。彼らはこうして共通する現象の説明、共通する思考の結論に達することができます。
われわれは、そうした共通の説明や結論を、客観的と呼びます。その意味は、それらがある一人の個人だけに特有の、したがって他の説明や結論と異なるような、その個人にも他の人間にも共通性のない、私的な見解や思想であってはならないということです。しかし、実在それ自体がありのまま正確に人間の知性に映じたものを客観的というのならば、いま述べたような意識的思考の共通内容が、はたしてそうした意味での客観性をもつかどうか――これを確かめる手段はありません。もしかしたら、これらの共通内容は、集団的な幻覚にすぎないのかもしれないのです。
直観のなかには、ある一個人に特有のもの、という意味で主観的なものがあります。そうした個人的な直観は、他の人々には納得のいかないものであるかもしれません。事実、そうした直観は、すべての人間にとって自明であるとはかぎりません。しかし、それでもなかには、考えを変えてこれを受け入れる者も現われることでしょう。科学者や詩人、宗教的覚者などの個人的な直観が、これにあたります。
しかしながら、これまでの研究成果によれば、潜在意識はいくつもの明瞭な精神層から成り立っているようです。そして、個人的な直観のレベルの下層には、もう一つの層があり、そこではC・G・ユングが“原初イメージ”と名づけた類いの神話を、潜在意識がつくり出しているように思われます。この原初イメージは、意識レベルにおける知的活動と同じく、万人に共通するものです。
同一の原初イメージは、多くの異なる諸民族の儀式や民話に投影され、表面化します。それはまた、時と場所を違えて諸文明を代表する人々によって書かれた、手のこんだ戯曲や小説のプロットにも現われています。原初イメージは強力な心的エネルギーをもっているため、強制力があります。それは、時として、意識的な人間の意志を圧倒し、人々に本来の意図に反するような行動をとらせることがあります。