投稿者:まなこ 投稿日:2016年12月10日(土)09時37分44秒   通報
【池田】 博士の誠実な努力に対し、私は尊敬の念を抱いております。
さきほど申し上げた無著、天親らの仏教学者は、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識という五つの感覚的意識や、これらの器官の作用を司り統合する意識である第六識の意識のほかに、第七識として末那識、第八識として阿頼耶識を考えていました。
第七の末那識は思量識ともいい、深い思考を行なう理性的な意識を指します。デカルトの唱えた“考える自我”は、ここに含まれるでしょう。第八の阿頼耶識とは、その奥にあって人間生命の法理を観照する精神の働きを指します。
ところが、その後西暦六世紀に中国に出現した天台{智ギ(★豈+頁)}は、第八の阿頼耶識のさらにその奥に、これらのあらゆる精神の働きを生ぜしめている本源としての、心の実体に到達しています。
これが第九識の阿摩羅識(根本浄識)であり、ここから天台の仏教理論が展開されるわけです。仏法ではこのように、古くから意識的自我の領域を越えて、生命の奥底を解明しようと試みてきたのです。

【トインビー】 たしかに、そうした人々の努力は大きな成果となって実を結んでいます。しかし、私の信じるところでは、比較的理解しやすいはずの精神の意識的表層部でさえ、それを不可分の精神全体の一部にすぎないものと考えないかぎり、完全かつ真実に理解することはできません。この不可分の精神全体にあって、潜在意識の深層は、知覚されず放置されているかぎり、常に意識の表層部を左右しています。こうした潜在意識の深層、ないしはせめてその深層の上層部を発掘し、意識の上にのせることは価値あることです。それによってわれわれは意識下の深層を意識することになり、もはや無意識のうちにこれに支配されることがなくなり、逆にこれを支配することができるわけです。
インドの仏教哲学者天親にしても中国の仏教哲学者智ギ(★豈+頁)にしても、彼らはこうした自らの意識を用いてその潜在意識の下層部を洞察したものと私は考えます。ここで(下層部の)「下」という空間を示す用語を使うのは、不適当で誤解を生みやすいかもしれません。しかし心的な現象を述べるさいには、空間を示す譬喩的な用語だけがわれわれのもつ唯一の語彙なのです。
ところで私はまた、人間精神の意識下にある淵底の究極層とは、じつは全宇宙の底流に横たわる“究極の実在”とまさに合致するものであるとも信じております。