投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年 3月11日(水)12時11分16秒  

・虹と創価家族様

会長以下執行部は、あらゆる質問や疑問の声に、誠意ある対応をしていくのは、当然であり義務でしょう。それが責任というものであり、まだまだ不十分であると言わざるを得ない。さすが官僚幹部であり、事務屋であります。痒いところにまったく手が届かない。

私は、大御本尊の概念は、もっとも合理的な本尊ルールであると考えます。人間の世界だから、どんなものにも一定のルールがなければ、混乱・困惑を生んでしまう。大御本尊ルールからの脱却を宣言した創価学会は、これからいかなるルールをつくろうというのだろうか。「御本尊を認定」という言葉の底にあるものは、「俺たちがルールを決めるんだ」という思いが、内在している。大御本尊ルールというのは、宗門が主導権を握るものであり、それは学会としては、世界広宣流布を妨げかねないという懸念と焦りがあったのかもしれません。そうだとしたら、その時点でズレた発想であると思います。
独立した教団なのだから、なんでも自分たちで決められるとタカをくくっておりますが、正確には、独立した教団というよりかは、「独立させられた教団」というのが適した表現ではないか。狂った法主が、理不尽にも学会を破門したわけであり、法主が狂わなければ今でも僧俗和合だったことでしょう。まあ、歴史にもしもはありませんし、離れるのは必然だったのでしょうが。
法主が狂い、破門されたこと自体が非常事態であり、御本尊ルールに関して主導権がなくても、世界広布の妨げにはなりません。事実、192カ国に仏法は弘まりました。つまり、誰も困っていない問題を、いたずらにこねくり回し、論争の種をまき散らしたというのが、今回の改正だったのではないか。私はそのように分析します。
教義論争は分裂のきっかけにもなり得ます。だからこそ変更するのであれば、しっかりしたものを提示する義務があります。隙だらけの雑な解釈・説明は、混乱を生むだけではないでしょうか。教学部がもっとも懸念したところは、そこであり、それこそが広宣流布の「自覚」と「責任」というものでしょう。