投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年 3月10日(火)18時04分24秒  

私は今回の教義変更で、創価学会は2度目の死を迎えたと考えています。一度目の死は、昭和54年であり、組織を優先させ、師を見殺しにしたことであります。師という人間を、二の次と考える根底の一念こそが、反人間主義であり、その本質は「保身」である。

同じく、教学部レポートと遠藤文書を読めばわかるように、最高幹部たちの振る舞いの、一体どこが人間主義だというのか。無茶苦茶ではないか。創価ルネッサンスと喜んでいる場合ではなく、その根底、本質を見ていかなければならない。人間主義でない限り、どれだけ体裁を整えようと、それは形だけのルネッサンスであり、誰かが犠牲となってしまう。仏法は心が大切であるが故に、形があればいいわけではない。その典型が宗門であり、形はあるが中身がからっぽの死んだ宗教であることは、論じるまでもない。学会も同じような道を歩もうとしていることが、実に残念であり情けない。

根底が人間主義ではなく、組織主義では過ちを犯す。執行部の一念が、はじめからズレているから、本末究竟等して、杜撰な対応となっているわけである。さすが54年組といったところです。54年の時は、師自らが立ち上がり、学会を蘇生させた。2度目の平成26年は、弟子が蘇生させる時である。蘇生とは、「人間主義創価学会」への蘇生である。

人間主義とは何かについて、一人ひとりの学会員が考えなければならない。言葉だけ存在しても、実際は組織主義に陥っているのが実情であり、人間主義の幹部と組織主義の幹部の、どちらが多数派なのか。それを考えれば、現在の創価学会の状態が見えてくるではないか。人間主義の幹部は稀であり、そもそもが中枢が組織主義に堕しているのだから、根の深い問題である。

人間主義の根本は、「話を聴くこと」であり、有無を言わさず強行突破する執行部の姿勢は、人間主義とは到底言えない。話の通じない人間たちであり、教義の内容以上に問題なのが、この幹部の姿勢そのものである。これが学会の中枢の一念であるならば、とんでもないことであり、教学部レポートも遠藤文書も、言わんとしていることは、そこであると思います。御書も先生の指導も、その文の底にある、心を汲み取ることが大切であるように、相手の真意を汲み取る事、それが、「聴く」ということであり、仏道修行においての一番重要なスキルである。

創価学会の人間主義は死んだ。しかし、妙とは蘇生の義であり、闇が深ければ深いほど、暁は近い。現に、この掲示板においても、たくさんの人たちが、教義変更を機に、思索・教学・信心を深める契機としている事実。それが必ずや、人間主義創価学会への蘇生の力となることを信じるものであります。

組織主義創価学会から人間主義創価学会への転換。これこそが真のルネッサンスであり、同時にそれは、54年問題との決着であると、私は考えます。どこまでも大切にすべきは人間であり、心である。それを失ってしまったら邪教であり、形だけ存在するもぬけの殻の宗教である。そうなってしまったら宗門の二の舞であり、その見本(反面教師)が宗門なのである。そういう意味において宗門は、善知識なのである。悪をも味方に変える、これぞ法華経の力であり、毒を変じて薬と為すとはこのことである。