投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年 3月10日(火)00時53分12秒

渾身の諫言の書、読ませていただきました。まさに、「クリ○ンのことかー!」ばりの義憤に満ちていますね。スーパー摧邪人様の主張は、昨年の11月8日前の創価学会の主張であると思います。結局は、今まで通りでよかったということですよね。謗法と教わったことも、一夜にして、謗法ではなくなり、それに対する十分な説明もできない。まったくもってカオスであり、混乱を招く。諫言の書の内容も、全うであり、理に適っていると思います。

諫言の書は、学会の未来を思い、止むにやまれぬ気持ちで作成したものであり、その心自体が、非常に尊いものであります。それと同時に、このような思いをさせてしまっている学会中枢部というものは、一体どのような神経をしているのか。怒りと失望と情けない気持ちにさせられます。当然、教義変更するということは、このような声が起こることは簡単に想定することができますし、そういう声への納得のいく対応も必要となります。果たして今回そこまで頭が回っていたのかどうか。教学部の制止を振り切り、拙速の強行突破を断行した弊害は必ず生じます。

整合性など関係ないという事は、それはつまるところ「無理が通れば道理は引っ込む」ということであり、現創価学会中枢には道理は通じないということを意味します。もはや、話にならないということです。諫言の書を提出されたとしても、不十分な誠意なき対応をすることが目に見えますし、強行突破のパワープレイ自体が、人間主義に反する行為である。教義変更と引き換えに、創価学会は大事な何かを失ったのです。その証拠が、諫言の書となってあらわれ、それは心ある会員を悩ませ、苦しめてしまった結果であります。

残念ながら、諫言の想いは、中枢には届くことはないでしょうし、改めることもしないでしょう。しかし、私にはその想いは伝わりました。諫言の書を投稿することは、さぞ勇気の要ることだったでしょう。その勇気の一歩を記したスーパー摧邪人様は、その時点で勝利者であると私は断言したいのであります。日蓮大聖人も、立正安国論を幕府に提出しましたが、受け入れられないことはわかっていた節があります。同じように諫言しても受け入れられない可能性は大でしょう。

それでも一石を投じることにはなり、何かしらの変化をもたらすきっかけとなる可能性はあります。内容云々にはあえて言及はしませんが、諫言した結果どうなったかを報告していただけたら幸いです