投稿者:寝たきりオジサン 投稿日:2016年12月 3日(土)05時25分57秒   通報
―フランス広布の母――.
☆ ウストン=ブラウンさん ☆

パリに燃ゆる仏法平和への情熱.

花の都・パリは、世界の都市のなかでも私の好きな町の一つである。
多くの人びともそうであるに違いない。

萌えいずる緑と美しき花で古都を装う春も佳し、セーヌの川面にきらめく
光が躍る夏も佳し、モンマルトルの丘に芸術が色づく秋も佳し、歴史の
堆積した石畳に枯れ葉が舞う冬もまた佳し。

パリの四季に思いを巡らせながら、私は人生の秋を迎え紅葉の輝きを放つ
フランスの一婦人に誕生祝いの手紙をつづった。

「純粋なフランス人で正法を受持し、正法を弘めゆく不思議な使命ある貴女へ――。
妙法は円教であり、全地球も全宇宙も包んでいる大法であります。

ヨーロッパの先駆者として山崎君が中心となっていますが、お母さま、また姉の
立場として、この人を支え守ってあげてください。

これ以外に、現在のヨーロッパ広布の基礎づくりはできないて信ずるからです」
このフランス婦人との出会いは十数年前のことであり、パリ郊外のソー市にある
NSF(フランス日蓮正宗)のパリ本部であった。

名をフローランス・ウエストン=ブラウンさんという。すでに七十歳近い年齢で
あるが、声は若々しく、気品の漂う銀髪と眼鏡の奥に光る知的な瞳が印象深い。

私は彼女と何回となく語り合った。信心のこと、人生のこと、ヨーロッパの
こと等々・・・。常に鋭く、常に温かく、そしていつも将来のことをさり気なく
手を打っていく示唆をあたえてくれた人であった。

彼女は一九〇一年、パリ近郊のル・ベジネで生まれた。若き日、パリ大学
ソルボンヌ校で哲学と文学を学んだ才媛で、世界の名作を読みながら、夜空の
星と語り合う情熱とロマンの人であった。

父親はパリ上訴裁判所長官をつとめた司法官、祖父は外交官。一族にはフランス
陸軍大将や、フランス・アカデミー会員に名を連ねる歴史学者がおり、彼女は
正統なフランス上流階級の血を受け継いでいる。

もう一つ、彼女の五体には平和闘士の血が流れている。ご主人のレイモン・
バンク氏は世界に冠たるフランス・レジスタンスの英雄であった。「レコー・ド・
モロッコ(モロッコの声)という新聞の編集長をつとめ、言論界でも健筆を存分に
ふるっていったことも私は聞いている。

第二次世界大戦のさい、ナチス・ドイツ軍の占領下で「フランス国内秘密軍団」
など三つのレジスタンス組織に身を置き、祖国の平和のために勇敢に戦った。
彼女も闘士たちを安全な場所にかくまうなど献身的にご主人を助けた。

しかし不幸にもご主人はゲシュタポに捕らえられ、拷問をうけ虐殺された。
その殉難の抵抗者としてのご主人の名は、冬季オリンピックが開催されたグル
ノーブルの街路に「レイモン・バンク通り」として残っている。

戦後、彼女はサンジェルマン・デプレ付近で画廊を経営していた。斬新な企画は
ないものかと考え、芭蕉の俳句を題材にしてパリ在住日本人画家に制作を依頼する
など、日本への関心も深かったようである。

やがて経営危機に瀕したとき、画廊を訪ねてきた日本人画家・長谷川彰一さん
(現NSF副理事長)から仏法の話を聞き、山崎鋭一議長宅での座談会に案内され
一九六四年四月に入信した。

哲学に造詣の深い女史の直観は、仏法で説く「慈悲」こそ、真実の平和と愛の
本源と鋭く感じとった。そして古代キリスト教には東洋の仏教の影響が深く
刻印されているとして西伝仏教に興味をいだき、独創的な研究もつづけた。

六十三歳にして日蓮大聖人の仏法に巡りあった女史は、限りあるこの世の一日
一日を惜しむかのように求道されたのである。とくに一九七三年七月、総本山
・常来坊で拝見した女史の姿が忘れられない。

海外各国メンバーによる”交歓の夕べ “で、フランスの友は国歌「ラ・マル
セイエーズ」を合唱した。女史は最前列で友と肩を組み、こぶしを振って熱唱
していた。対独レジスタンス運動の渦中、亡きご主人とともに幾度となく歌っ
た感情が込められていったのであろう。

ある時、彼女はこう語った。「夫は戦争が二度と起こらないよう、自分は犠牲に
なる、といっていました。夫は悲劇の殉難者です。私は夫が最後まで叫び
つづけた真の平和を確立するため少しでも役立つ生涯を送っていきたい」と
頬を紅潮させていた。

命を賭した夫の壮絶な決意を、このレジスタンス闘士の妻は、妙法によって
実現せんと深く深く誓っていたに違いない。 戦争ほど残酷なもはない。
戦争ほど、悲惨なものはない。

拙著・小説『人間革命』の冒頭の一節に、女史は共鳴を示された。
フランス語保存委員会のメンバーでもある女史は、のちに同書のフランス語版の
翻訳にあたっても日夜を分かたず、無償で全魂を打ち込んで下さり、その労苦の
結晶ともいうべき手書きの原稿を私のところに送って来て下さった。

そのほか多くの学会出版物のフランス語訳に尽力された女史は、一九七九年十月、
国際功労賞に輝いている。私が女史と最後にお目にかかったのは一九八一年九月
である。私は東京・小平の創価小学校の応接間で懇談した。

女史はフランス広布の未来展望、NSFの前途についての抱負を烈々と述べた。
私が「よく頑張ってこられました」と讃えると、彼女は微笑みを満面に浮かべ、
「ウィ、ウィ」と、うなずいていた姿が忘れられない。すでに八十歳であり、
これが最後の来日と思って招待したが、現実となってしまった。

翌八十二年八月二十六日の朝、女史は八十一歳の誕生日を目前にして逝った。
近しい人に「私は自分のやり遂げるべきことは、すべてやりきっていくでしょう」
と語りながら、バカンスを利用してメンバーの激励のため南フランスに旅立った。

旅先のホテルで朝食を注文した後、ソファに腰掛けたまま永眠した。

老衰による自然死で、その表情は誠に安らかかであったとの報告を山崎議長から
うけた。葬儀はNSF葬として彼女が大好きであった南仏トレッツの欧州研修
道場で厳粛に営まれた。

彼女と生前、親交のあった著名な美術史家、ルネ・ユイグ氏は、彼女を「ファム・
ド・カリテ(品格の高い女性)」と最大の賛辞を贈り、その死を悼んでいた、
とも伺った。 私は偉大なる”フランス広布の母”と名付けて、心より哀悼の意を
込めて弔電を打った。

今女史は、一人娘のジュヌビエーブさんとともに研修道場の近辺にあるトレッツ
市営墓地に眠っている。私はいつの日か、あの陽光燦たるサント・ビクトワール
山に抱かれた女史の墓参をするとき、” 妙法のレジスタンス “の闘士として誉れ
高く散っていった彼女に、” フランス広布の母に捧げる “詩を詠み、その功を讃え
たいと念願している。

ブラウン女史については以前、雑誌に掲載したことがあるが、逝去されたいま、
彼女のことを加筆、添削して後世に残したいと思い、再び筆を執った。

(昭和61年2月24日)