投稿者:月夜の散歩 投稿日:2016年11月15日(火)02時17分18秒   通報 編集済
月の光がひときわ明るく部屋に差し込み目が覚めました。
スーパームーン 68年ぶりに最も接近している様です。
明日の夜も楽しみです。

もう1年近く経ってしまいましたが、大聖人の国の救い方の続きです。
いや、ここまでくれば ’国’ だけではなくて ’世界’ ですね。

財務の件がでていましたので、大聖人は御書で何と言われているのか調べてみました。

主人の云く、 客明に経文を見て猶斯の言を成す心の及ばざるか理の通ぜざるか、全く仏子を禁むるには非ず唯偏に謗法を悪むなり、 夫れ釈迦の以前仏教は其の罪を斬ると雖も能忍の以後経説は則ち其の施を止む、然れば則ち四海万邦一切の四衆其の悪に施さず皆此の善に帰せば何なる難か並び起り何なる災か競い来らん。
立正安国論 30ページ

主人がいう。
あなたは明らかに経文を見ていながら、まだこのような発言をしている。理解が足りないのか、道理が通じないのか。
仏の子を捕縛するのではまったくない。ただひたすら謗法を嫌悪するだけである。
そもそも、釈尊より前の仏の教えでは謗法の罪ある者を斬り殺していたが、釈尊の出現以後の経に説かれているのは布施をやめることである。そういうわけで、天下のあらゆる国々、すべての人々が、悪に布施をしないで、皆が善に帰依するなら、どのような難が一斉に起こり、どのような災いが先を争って到来することだろうか。

かゆへに大国の王は民ををやとし.民は食を天とすとかかれたり、食には三の徳あり、一には命をつぎ.二にはいろをまし・三には力をそう、人に物をほどこせば我が身のたすけとなる、 譬へば人のために火をともせば・我がまへあきらかなるがごとし、 悪をつくるものを・やしなへば命をますゆへに気ながし、 色をますゆへに眼にひかりあり、力をますゆへに・あしはやく・てきく、かるがゆへに食をあたへたる人・かへりて・いろもなく気もゆわく・
力もなきほうをうるなり。
食物三徳御書 1598ページ

ゆえに、大国の王は民を親のように思って大切にし、国の民は食物を天の如く尊重する、と書かれている。食物には三つの徳がある。一には生命を継ぎ、二には色を増し、三には力を強くする徳である。
人に物を施せば我が身を助けることになる。例えば人のために灯をともしてやれば自分の前も明るくなるようなものである。
悪を為すものに物を施すならば、生命力を増すゆえに生気が長くなり、色を増すゆえに目に光りが宿り、力が強くなるために足が早く、手がよくきくようになる。そのために食を施した人はかえって色を失い、生気も弱くなり、力もなくなるという報いを受けるのである。

設いこうをいたせども・まことならぬ事を供養すれば大悪とは・なれども善とならず、 設い心をろかに・すこしきの物なれども・まことの人に供養すれば・こう大なり、何に況や心ざしありて、まことの法を供養せん人人をや。
衆生身心御書  1595ページ

たとえ功徳を積んでも真実でない人を供養すれば大悪とはなっても善とはならない。たとえ心が愚かで、少しの物の供養であっても真実の人に供養すれば功徳は大きい。まして厚い志をもって、真実の法を供養する人人の功徳はどれほど大きいか計り知れない。

須達長者と申せし人は 月氏第一の長者ぎをん精舎をつくりて仏を入れまいらせたりしかども彼の寺焼けてあとなしこの長者もといをを・ ころしてあきなへて長者となりしゆへに・この寺つゐにうせにき、 今の人人の善根も又かくのごとく・大なるやうなれども・あるひは・ いくさをして所領を給或はゆへなく民をわづらはして・たからをまうけて善根をなす、此等は大なる仏事とみゆれども仏にもならざる上其の人人あともなくなる事なり。
窪尼御前御返事(善根御書)1485ー6 ページ

須達長者という人はインド第一の長者で、祇園精舎をつくって仏をお迎えしましたが、その寺は焼けてしまって今は跡も残っていない。
この長者は、もともと魚を殺して商売をして長者となったので、その殺生の罪によってその寺はなくなってしまったのです。
今の人々の善根もまた同じようなものです。大善根であっても、あるいは戦をして領地をたまわったり、あるいはわけもなく民を苦しめて財産をつくって、それをもって善根としているのです。
これらは大きな仏事と見えますが、成仏しないだけでなく、その人々の供養は跡形もなくなくなってしまうのです。

(私見;この当時は戒律を修行としていた時期で、殺生はいかなる理由でも絶対悪だったということでしょうか)

月夜の晩に深く思索しました。