投稿者:海外在住 投稿日:2017年 1月12日(木)09時27分53秒   通報 編集済
曾谷殿御返事(成仏用心抄)
2008年8月号大白蓮華より。先生の講義

謗法呵責の実践こそが成仏の要諦
大聖人は、次の涅槃経の有名な一節を引かれ、仏法違背の悪僧に対しては徹して戦い抜けと仰せです。「たとえ仏道修行をしている者であっても、仏法を破壊する者を見ておきながら放置して強く責め、追放し、悪を糾弾しなければ、その人自身が仏法の敵となってしまう。強く責め、追放し、悪を糾弾してこそ真の仏弟子となる」。
大聖人は、本抄で「法を破壊する者を見て於いて」この中の「見て」の字と「置いて」の字を“よくよく心に刻むべきである”と仰せです。
「法華経の敵」を見てきながら、放置して責めなければ、師も弟子もともに無間地獄は疑いないとまで仰せです。また、謗法呵責の実践がなければ、成仏を願っても無益であるどころか、どんなに法華経を信じても必ず地獄に堕ちるとも仰せです。ここで「うるし千ばいに蟹の足一つ」とあります。樹皮に疵をつけて時間をかけて少しずつ採取した器1000杯分の漆液の中に、わずか一本のカニの足を入れるだけで、カニの成分によって漆の効力がなくなるとされています。
器いっぱいにたたえられた清水も、その中に毒物を一滴でもたらしたら、当然、飲むことはできません。正法に違背し、誹謗する謗法は、信仰上の猛毒です。妙法の智水を、たちどころに毒水に変えてしまう怖さがあるのです。
ゆえに、末法の正師は、謗法の悪を厳しく呵責するのです。末法は、正法に違背する心を起こさせる悪知識に満ちている時代です。しかも、仏教の中で宗教的権威をもった僧が悪知識になる時代です。その末法に妙法の智水を正しく流れ通わせるためには、権威・権力を恐れず、勇気をもって悪を呵責していくことが正師の要件になるのです。
仏法の実践で「悪と戦う」ことが重要な理由は、戦わなければ、その人自身が悪にまみれてしまうからです。その怖さを本抄では南岳大師の「多くの悪人とともに地獄に堕ちてしまう」との言葉を引いて示されています。
「善いことをしないのは悪いことをするのと同じ」とは牧口先生の永遠の指導です。
悪知識は人々の生命の無明、すなわち貧瞋癡の三毒の生命を助長させます。それが、悪知識の恐ろしさです。したがって、悪を容認してしまえば、結局、多くの人々が苦悩をかかえ、辛酸をなめることになります。
仏法が人間の尊厳性を開く教えである以上、人間蔑視・差別主義・生命破壊の悪の思想とは断固、戦い抜かなければなりません。
悪を滅しなければ、真の善の行為となりません。
仏法上の悪と戦わなければ、自身の成仏もありえません。
「悪との戦い」は、決して中途半端であってはいけない。戸田先生も「悪とは完膚なきまで戦うのだ」と強調されていた。
魯迅は述べています。
「第1次の民国革命が成功したとき、革命家たちは『水に落ちた犬は打たぬ、勝手に上がってこい』と、反革命の人間たちを放置した。すると彼らは這い上がり、しばらく隠れていた。そして第2次革命の際に突然現われて独裁者を助け、多くの革命家を殺した。『反革命の人間達に対する慈悲が、彼らを繁殖せしめたのであって、その後の覚醒する青年は、暗黒に反抗するためには、さらに多くの気力と生命を費さなければならなくなった』『この手合は、まず水のなかへ落とし、さらにこれを打つべきである』」徹して責め抜けとの、魯人の魂の叫びです。
ともあれ「毒気深入・失本心故は是なり」とあるように、仏性を忘失させ、人間性を破壊する「毒の思想」とは断固、たたかわなければなりません。それでこそ、涅槃経で説かれる通り、真の仏弟子の実践であり、真の「人間のための宗教」となるからです。