投稿者:臥子龍メール 投稿日:2016年11月 8日(火)16時44分25秒   通報
「在在諸仏土・常与師倶生」

戸田先生は、牧口先生の三回忌に、こう追悼されました。

「あなたの慈悲の広大無辺は、わたくしを牢獄まで連れていってくださいました。そのおかげで『在在諸仏土・常与師倶生』と、妙法蓮華経の一句を身をもって読み、その功徳で、地涌の菩薩の本事を知り、法華経の意味をかすかながらも身読することができなした。なんたるしあわせでございましょうか」

これが仏法の師弟の極意です。
他の幹部たちは、それまで「牧口先生の弟子」であることを自称していながら、ひとたび自分が難を受けて牢獄に入った時、豹変してしまった。
大恩ある先生を「牧口の野郎」とののしって師敵対していった恩知らずもいた。人の心は怖い。

そのなかにあって、真の弟子であった戸田先生のみが、「あなたの慈悲の広大無辺」と、深い尊い師弟の絆を揺るぎなく自覚されていたのです。

この尊貴なる師弟こそ、創価の魂です。
この魂が不朽であれば、創価学会は永遠に発展し続けます。この創価の三代の師弟の魂を根幹としてこそ、広宣流布の基盤を総仕上げしていけるのです。

戸田先生は、牧口先生と同じく牢獄に入ったことによって「地涌の菩薩の本事」「法華経の意味」を知ったと述べられています。その本質が、この「在在諸仏土・常与師倶生」です。

師も弟子も永遠の菩薩行に生きる この一点を抜きにして法華経の本質はありません。戸田先生はある時、一般講義で、わかりやすい表現で、こう語られました。

「「ぼくが日本のつぶれたところに行くから、君もこないか」と言ったら「はい、行きましょう」「そうだ、では行こうかね」とか言って、みんな出てきたのです。どこであろうと、もろもろの仏土に、お師匠様とかならずいっしょに生まれるという。

この大聖人のお言葉から拝すれば、じつにみなさんに対して、私はありがたいと思う。約束があって、お互いに生まれてきたのです。」

大聖人は、「過去無量劫より已来師弟の契約有りしか」(1340-09)と仰せです。
師弟は「三世の宿縁」です。広宣流布に真剣に戦えば、その深いつながりを確かに感じることができるのです。

日蓮仏法の精髄である「戦う師弟の精神」を現代に蘇らせたのが創価の初代・二代・三代の会長です。創価学会の出現しなければ、法華経、そして日蓮仏法の師弟の魂は潰えていたと言っても決して過言ではありません。

法華経の精髄は「師弟」

それでは、なぜ仏法において師弟が大事なのか、あらためて師弟の仏法的意義を確認しておきたい。

一般に「師」とは、より熟練した技術、より深い知識、より高い行き方、より豊かな境涯等を教えてくれる人です。人は、何らかの意味で自分を高めてくれる存在を「師」と仰ぎます。

仏法においては、師である仏は、自らが開悟した「法」に基づいて成就した尊極の人間性へと、弟子も共に高めようとします。その「法」とは、弟子たちにとって、無明によって覚知を妨げられ、経験したことのない「妙法」です。

それゆえに「法とはこのようなものである」という論理的な教法や、「煩悩を乗り越えなさい」というような実践的な教法を教えられても、その教えの言葉だけでは仏の境涯が伝わるわけではありません。

むしろ、教えの言葉とともに、仏との人格的触れ合いによって触発されることによって、我が内なる「法」を覚知することができるのです。これが「法が伝わる」ということです。

仏法において「師弟」が重要な意味をもつ理由は、ここにあります。師弟の「人間」対「人間」の絆を通してのみ「法」は伝わり、「法」に基づく人間革命が可能になるのです。

「生死一大事の法」を伝えうる血脈について論じられている本抄において、大聖人と最蓮房との深い師弟関係に言及されるべき必然的な理由も、ここにあると拝されます。

したがって、仏法は人間を離れた超越的存在、神秘的な存在として、「師」を立てることはありません。
「成仏するより外の神通と秘密とは之れ無きなり」(0753-第二如来秘密神通之力の事-02)と仰せのように、あえて言えば、一個の人間が即身成仏できることこそが、仏法における最高にして唯一の神秘です。
しかも、この成仏という「神通」や「秘密」は、万人に実現が可能なのです。

それでは、師である仏が入滅した後は、どうすればよいのか。身をもって教える人がいない時代は、本当の意味で、仏法を伝えることはできないということなのか。

この問題に正面から答えた経典が法華経です。
法華経は、釈尊という仏の人格の核心が「仏の誓願」にほかならないことを教えた経典です。仏の誓願は、「我れは本と誓願を立てて、一切の衆をして、我が如く等しくして異なること無からしめんと欲しき」と説かれます。いわゆる「如我等無異」です。

迹門において、声聞たちは、本来、自分たちも仏と同じ大願に生きていたことに目覚めていきます。これは釈尊と声聞たちが、不二の本願に立っていることを教えています。
そして、本門において、この誓願のもと、久遠の成道以来、娑婆世界にあって一切衆生を説法教化し続けている真の仏の姿が説き明かされます。すなわち、寿量品に説かれる「久遠実成の仏」です。

さらに、この誓願を受け継ぎ、仏の滅後に仏と同じ民衆救済の実践に献身する「師弟不二の菩薩」こそ、「地涌の菩薩」です。

法華経はまさに一貫して「師弟不二」を教えている経典なのです。
仏教の歴史をひもといても、この「師弟不二」を見失ったところから、釈尊の神格化が始まりました。
久遠実成の釈尊が人間から離れて超越的な仏になってしまえば、師弟は成り立ちません。

師弟がなければ、一切衆生にとって、仏とは崇めるだけの存在となってしまい、自分自身の人間革命の規範とはなりません。

法華経は、仏の人格の核心を「誓願」と明かし、その「誓願」を継承する不二の弟子に境涯を衆生に伝えることが可能となったのです。

なかんずく「広宣流布」という大誓願には、不惜身命の実践が不可欠です。法華経寿量品には「一心欲見仏・不自惜身命」と説かれ、仏の滅後であっても、不惜身命の実践のあるところ、釈尊が出現すると説きます。
このように、広布大願と不惜身命という仏の人格の核心を実践する人には、仏の滅後であっても、仏の境涯が伝わっていくのです。

日蓮大聖人は、唱題という仏界湧現の方途を示され「広布大願」「不惜身命」という悪世末法における信心の鍵を明かされました。これによって「成仏の血脈」が成り立ちます。その一切の根本の力が「師弟」なのです。
大聖人の不二の弟子・日興上人は、こう言われております。
「この大聖人の法門は、師弟の道を正して、仏になるのである。師弟の道を誤ってしまえば、同じく法華経を持ちまいらせていても、無間地獄に堕ちてしまうのである」

そして、現代において、この仏の誓願である「広宣流布の大願」に目覚め、「不惜身命の行動」を貫き通してきたのが、創価学会三代の師弟です。

私は、牧口先生、そして戸田先生の弟子として、三類の強敵との大闘争に勝ちました。「断じて弟子が勝つ」という歴史を築きました。戸田先生に、「万事、勝利しました」と、堂々と報告ができます。何の悔いもありません。

牧口先生と戸田先生。戸田先生と私。創価学会は、仏法の真髄である師弟不二を三代にわたって築き上げてきました。創価の師弟の勝利があったからこそ、法華経に説かれ、大聖人が御遺命された「一閻浮提広宣流布」すなわち世界広宣流布を現実に開いていくことができたのです。

「師弟相違せばなに事も成べからず」(0900-09)師弟が合致すれば一切の大願を成就することができる。「師弟」とは最強無敵の勝利の力なのです。

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三代会長が超越的な仏になってしまえば、師弟は成り立ちません。

数々の池田先生との出会い、書物による触発等々。

絆、が「法が伝わる」を作ってきたのです。

師弟の「人間」対「人間」の絆は組織信仰の枠では「法」は伝わり得ない、「法」に基づく人間革命が可能とならないという事です。

今の学会執行部には、また、それに連る人々には血脈は無いという事です。