投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年 2月26日(木)23時42分4秒  

・うらら様
すべての現象は起こるべくして起きていると思います。その中で、何を学んでいくかが重要であり、自身の成長の因としていくこと。これが価値創造であり、創価的な生き方だと考えます。魔をも味方に変え、価値へと転換していくことが日蓮仏法であり、それには「智慧」と「生命力」が必要です。智慧があっても、生命力がなければ、絵に描いた餅となり、逆に生命力があっても、智慧がなければ台無しになってしまう。題目とは、最高の生命力と智慧を湧き出だす源泉であり、日頃の学びの、点と点をつなげる作業でもあると思います。何もなければ何も生まれない。学びがなければ、智慧も発揮されない。学ぶ姿勢がなくなると、人は堕落し、慢心を起こしていくものです。それが過ちの因となり、後悔の人生を歩むことになりかねないと感じます。

・虹と創価家族様
私は、然るべき地位や立場にある人が、たとえ誤解や勘違いだったとしても、それらを生むような言動をしただけで、一種の敗北であると思っています。「御本尊を認定」や「すべて本門の本尊」などは、多様に解釈可能であり、意図していた通りに伝わるかは別問題である。仏法の歴史においても、誤解や勘違いにより分派していったわけですが、教義変更はかえって、御本尊に関してよくわからなくなってしまった。執行部は、現代の慈覚・智証のようであり、「創価学会を讃嘆しているが、かえって創価学会の心を死す」行為ではないか。創価学会の心とは学会精神であり、執行部には「一人を大切にする」という想いがなくなっているのではないか。そうでなければ、このような雑な改正はできない。雑は悪であり、就中、全創価学会員に関わる教義変更において、それは許されない。学会精神を失えば、当然、矢面に立つこともなく、ずるい人間になっていく。師の後ろに隠れ、好き放題する輩は、師敵対であり、利用である。このような人間にはなってはならないという、見本のように感じます。

・信濃町の人びと様
今、求められているのは「本物」なのだと思います。仏法が弘まるにつれ、より万人が実践しやすいように、また、社会に適応していくためにも、簡略化していく流れは必要なことです。勤行や教学試験等も簡略化し、広く浅い信心となり、その分、実践は容易になりました。それと同時に重要なのは、本物を育成していくこと。この両方がなければ、真の広宣流布の道を拓くことは出来ないものと考えます。数だけ増えても、本物がいなければ、ただの烏合の衆であり、悪い人間が出現した時に、戦うことはおろか、見破ることすらできない。仏法を滅ぼすのは、力なき愚かな弟子であります。広く浅くでは、このような仏教史すらも知らないレベルであり、悪にとっては都合がいい。今後は、悪が嫌がる創価学会をつくっていくことを意識していきたいと思います。

・鉄砲玉様
会長は「誤解」しているという説がありますね。それとは別に、人というのは見た目やイメージで判断してはならないと思います。アメリカ?では、幼少の頃から、子どもに、何人かの写真を見せ「この中で、犯罪者だと思う人を選んでください」と。決まって悪人顔の人が選ばれますが、実際の犯罪者は温厚で、優しそうな人が正解であり、このことから、「人は見かけで判断してはならない」と教訓しているようです。人は他人を勝手にイメージします。「そんなことをするような人ではない」というのも思い込みであり、まじめな人ほど、心に葛藤や狂気をかかえていたりするものです。善悪不二であり、聖者や生き仏と慕われている人が、僭聖増上慢の場合もあります。思い込み、イメージこそが盲点なのです。