投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年 2月24日(火)02時00分50秒  

聖教座談会読みました。さて、今回の教義変更について、4つの観点から論じていきたいと思います。

1、創価学会新教義について
まず、はじめに、書写本尊含め、すべての本尊を本門の本尊とするという新見解を、過去との整合性等は抜きにして、それのみで判断するのなら、一概に間違いだとは言えません。何故ならば、出世の本懐にしろ、大御本尊建立にしろ、明確な証拠がないからである。つまり、「わからない」が答えであり、まだまだ検証不足であるというのが現実でしょう。御本尊の問題は、御書のみならず、それを司ってきた歴代法主の言も無視することはできない。そして、これまでの見解を変更するのであれば、余程の確証がなければ動かすことは危険であり、万が一、調べた結果、「やっぱり大御本尊でした」では済まされない。見切り発車で進めていい案件ではないというのが大前提であり、普通に考えたらわかることでしょう。
私が思うに、会長は推進派のブレーキ役として機能しなければならなかったと思います。そして、誰の意見を一番に尊重すべきか。それは教学のエキスパートである教学部に決まっています。教学部がゴーサインを出すことができなければ、進めてはいけない。教学部のゴーサインが最低限の条件であり、苦言や懸念を表明されているレベルでは、時期尚早であることは間違いなく、それを無視して進めることを「暴走」といいます。

2、整合性について
整合性を気にしている人に対し、聖教座談会で、佐藤優氏の言を借り、「『過去の発言と矛盾しているじゃないか』と批判する固定した見方は、『死んだ宗教』『化石の宗教』の論理」と、一刀両断している。これには笑ってしまった。御本尊という教義の根幹に関わることに整合性を求めないで、一体、整合性をどこに求めるのか。なんでもかんでも、死んだ宗教、化石に当てはめてはいけません。事と次第に寄りけりで、超重要案件である御本尊に関しては、文証・理証・現証の上から厳密に検証し、構築していくものです。それとも「整合性」という言葉は死語ですか。そもそも教義変更は、ただの執行部の暴走である疑い濃厚であり、論理展開に無理がある。その結果が聖教座談会の陳腐な内容となって表れてしまっていると感じます。

3、幹部の腐敗堕落について
教義変更の裏には、教学部レポートや遠藤文書にあるような傲慢な執行部の独断専行がみられる。掲示板で叩いている部分は、整合性についてと、幹部の腐敗堕落についてである。新教義を樹立すること自体が問題の本質ではないということです。聖教座談会でも、本部の体質を垣間見ることができる。男子部長が「青年部も全面的に賛同です」という言葉!この言葉の中に、今の創価学会のすべてが入っているように感じました。あたかも教義変更が何の問題もなく、反対意見もなく、否、「全面的」という言葉の中に、懸念の声には耳を傾けないという想いが内蔵されている。これではあたかも疑問に思うほうが悪いという印象を与える。いやいやいやいや、困惑している青年部いますから!全面的じゃないですから!

4、仏敵との戦いについて
大御本尊と決別してしまったことは、宗門との戦いにおいて、重要カードを捨ててしまったことを意味する。大御本尊を利用し、威張り散らし、理不尽に創価学会を破門した宗門という構図が、教義変更によって崩れてしまった。私は教義変更するのであれば、その前に宗門との完全決着が先であると考えています、ここでいう完全決着とは、「時の法主が正式に、創価学会を破門したことは間違いであった」と謝罪すること。しかし、大御本尊をガラガラポンしてしまったら、敵にとっては都合がよく、攻撃材料となり、逆に学会側は論理的に説明することができなくなる。これでは戦いにならない。結果、完全決着は夢のまた夢となってしまったのではないか。これ、広宣流布にとってプラスかマイナスか、よくよく考えればわかることである。

まとめ
学会は独立した教団であり、新教義を打ち立てるのはもちろん自由である。しかし、考えなければならないことは「正しければやっていいのか」ということです。原理主義の根底にある思想も「正しければ何をしてもいい」という歪んだ正義感であることを忘れてはならない。すべては紙一重であり、執行部は師敵対なのか、それとも本物の弟子なのか。この見分けもつき難しであり、一つの観点からではなく、あらゆる観点からみて、総合的に判断していくべきだと思います。