投稿者:螺髪 投稿日:2016年11月 8日(火)23時07分52秒   通報
>師弟の「人間」対「人間」の絆は組織信仰の枠では「法」は伝わり得ない、「法」に基づく人間革命が可能とならないという事です。今の学会執行部には、また、それに連る人々には血脈は無いという事です。(投稿者:臥子龍メール 投稿日:2016年11月 8日(火)16時44分25秒 )<
http://6027.teacup.com/situation/bbs/59485

生死一大事血脈抄講義を挙げられていることといい、臥子龍さんの仰ることは、まったく「的」を得たものであると、全面的に賛同致します。
「組織信仰の枠では『法』は伝わり得ない」のです。

その端たる例が、「先生」呼称の「会則」だといえます。どなたかの投稿にもありますが、「会則」に挙げるものとは到底思えません。それをあえて「会則」に持ってくるというのは、別の意図があるからと断じざるを得ません。「寸鉄」に、「師匠」「恩師」「先師」の区別があったものを、さっそく「先生」と使い始めてきているのと同次元でしょう。

それは、三代をまず同列に扱って、あまりにも存在の大きい池田先生の存在を薄めたいのでしょう。やがては、「代々の会長は同じ位置付け」とでも持っていくのでしょうか。恐ろしい企みです。これもどなたかの指摘にありましたが、秋谷氏あたりが喜ぶ扱いでしょうかね。

そんなことで、
「むしろ、教えの言葉とともに、仏との人格的触れ合いによって触発されることによって、我が内なる『法』を覚知することができるのです。これが『法が伝わる』ということです。仏法において『師弟』が重要な意味をもつ理由は、ここにあります」
ということは永久に分からないでしょうね。

さらに
「多くの人が、それぞれの人生において『信心の血脈』を確かに受け継いでいくためには、その全体像を体現した『師』の存在が決定的に重要なのです」(P226)
の一節を添えさせて頂きます。