投稿者:ジョーカー 投稿日:2016年11月 9日(水)10時53分22秒   通報
54年を総括せずして、弟子の自立も巣立ちもない。創価学会の永遠性の確立をしたいのであれば、54年問題は避けては通れない。それは、生き証人のいる今しかできない。具体的には、2年以内に特集を組み、余すところなく全貌を明らかにし、弟子自らが自身を断罪し、懺悔する。そこから本当の弟子の時代がはじまる。

54年問題は、先生に気を遣わせて、口を閉ざさせてしまっている段階である。まだ、それだけの弟子でしかないということだ。言うならば、師を足蹴にした弟子であり、そこから脱却するには、師が断罪するのではなく、弟子たちによる自らの断罪が不可欠となる。54年を二度と繰り返さないようにあらゆる手を打ち、基盤をつくる。その先にしか、創価学会の永遠性の確立など存在しない。

本日の寸鉄より
「ごまかしの議論で誰を勇敢にできようか―哲人(セネカ)。幹部(リーダー)の師子吼に友は立つ」

創価学会仏を名乗り、自画自賛する前に、やることはたくさんあるはずである。それは54年の総括であり、会長はじめ、執行部の判断が誤ったとしても、是正できるシステム作りである。54年のけじめをつけられないで、どうして本門の弟子を名乗ることができようか。現会長も理事長も、54年問題の当事者であり、生き証人。いまこそ、自らを断罪し、後生の戒めとして遺す。その勇敢なる姿こそが、会員の心を奮い立たせることになる。

54年のけじめをつけず、いくら勝利を叫んだところでごまかしである。なぜなら、勝利といっても、会員と先生の絆が深いからこそもたらされるものであるからだ。組織上の理不尽も、先生と自分との一点(信心でとらえる)で大目にみてくれている会員は多い。また、先生の圧倒的福運により、間の幹部がおかしくても、会員はついてくる。それで勝ち取っている勝利を、あたかも自分たち(幹部)の力によると思い込むのは錯覚であり、慢心である。

54年は、師に尻拭いをさせ、師自らが戦いを起こさなければならないところまで追い込んだ。弟子は先生の後をついてきただけであり、つまるところ、「何もしていない」ということである。弟子の勇気も勇敢さも示していない。いまだに師の一方向からのアプローチしかないのが現状ではないか。少なくてもそう捉えなければ、勘違いする。54年も総括できないようでは、師弟不二も何もない。ここに気づけるかどうかである。

弟子自らが「54年問題を総括する」と発案したのなら、池田先生はどれほど喜ばれるだろうか。「やっと、本当のことを言える時が来た(弟子が育った)」と、思われるのではないか。それもなく、先生が手を打たねばならないのであれば、テンションガタ落ちである。それは54年の敗北の弟子から、何も成長していないことを意味する。生き証人の方々、いつまでもそんな体たらくでいいのかを自問していただきたい。

保身と臆病で、あわれな敗北の姿をさらした弟子にできることは、勇気と勇敢さをもって立ち上がることである。地によって倒れし者は、地によって立つしかない。どうか、54年を総括し、自らを断罪(けじめをつける)する勇気を出していただきたい。その先に、創価学会の未来があるのだから。