投稿者:寝たきりオジサン 投稿日:2016年11月 7日(月)17時18分4秒   通報
《我がふるさとは世界》

☆ペルー・
インカ 黄金の心☆

『こんな山のてっぺんに都市を造ったとは。一体どうやって?そもそも何のために?』

インカ帝国の謎を秘めたペルーの遺跡「マチュピチュ」は、標高2,400メートルの「空中都市」である。

周囲は断崖絶壁。うっそうたる密林が広がる。尾根を切り拓いて、神殿や広場があり住居地域があり、用水路が縦横に走り、整然たる段々畑によって自給自足できるようになっている。

「世界の七不思議」と並ぶ「8番目の奇跡」と呼ばれる。

何の施設だったのか?
諸説ある。
「スペインの侵略に抵抗するゲリラ戦の基地だった」
「太陽信仰ゆえに、天に近い場所に建てた宗教施設だった」
「いや、避暑(ひしょ)のための離宮だったのだ」等々。

マチュピチュに初めて登った日本人は故・天野芳太郎(あまの・よしたろう)さんである。

首都リマ市にある「天野博物館」の創立者であり、私も博物館で2回お会いした。
氏の持論は『考古学は人間学』。遺物にこもる先人の深き『心』を学びたいという心であられた。
氏が反対したのは“ヨーロッパの文明国が南米の野蛮国を滅ぼした”という歴史観である。

『だまして征服したほうが文明人で、だまされたほうが野蛮人だなんて、そんなバカな話はありません』

文明の水準そのものも、インカ帝国は高かった。

500年以上も前に「脳の切開手術」が行われ、トルコ石に0.19ミリの穴をあける技術があった。

立派な彩色の織物を庶民も着た。灌漑(かんがい)設備を延ばして、不毛の地を耕地に変えた。

トウモロコシも、トマトも、ジャガイモも、アンデスの農民が改良を重ね、世界に広まったものである。

身障者や病人、未亡人、孤児、老人の生活は国家が保障した。女性の権利も強かった。

理想化するわけではないが、平和を愛する高度な社会だった。

しかし、侵略者たちに〈黄金帝国〉の財宝は目に入っても、その《黄金の心》は見えなかった。

心がなければ、心は見えない。
心が見えない分、力に頼った。

ペルー広布の建設も山頂に巨石を運ぶような難行苦行であった。
キシモト前理事長ら草創の同志は、悩める人がいれば、20時間30時間かけて訪ねていった。

やっと、たどり着くと「何しに来た」とののしられ、
「頭がおかしいのか」と侮辱された。

それでも、にっこりと「では、また明日来ますよ」。

「明日来るって、来るだけで1日かかるじゃないか」

「明日だけじゃないです。あなたが真面目に仏法の話を聞いてくれるまで、何度でも来ますよ」

後輩たちも走った。酸欠に苦しみつつ4千メートル級の山々を越え、熱暑のアマゾン地帯にも分け入った。

石ころだらけの危険な崖道(がけみち)を、車の天井に頭をぶつけながら、何百キロも駆けた。

今は、あのアマゾンの源流にも、アンデスの奥の村にも、妙法の友がいる。

人口2千人の山村で一人信心を始めた女性は、村中に聞こえるスピーカーで悪口を流された。

彼女は、はね返した。『私に信心をやめさせようとする人たちが、それでは私を幸せにしてくれるというの!』

81年、ご家族に遺したキシモトさんの最後の言葉は
「私の体を切ったならば、肉と骨のほかには、ひとつしかない。『ペルーの人たちを幸せにしたい』という気持ちだけしかない」

であった。
その少し前、家族に手伝ってもらい、ベッドの上で、わざわざ正座した。
最後の力をふりしぼって居ずまいを正し、若きシマ現理事長に深々と頭を下げたのである。
『ペルーの同志のことを、どうか、どうか、よろしくお願いいたします』━━享年68歳。

『この方々を見よ!』

今、恵まれた環境で仏道修行できる身でありながら、少々のことで愚痴をこぼすような惰弱さがあれば、あまりにも情けない。

あの人がどうだとか、自分がどう評価されるかとか、そんなことは小さなことだ。

もっと、どっしりと深く、アンデスの山々のごとく大きな大きな人間になれ!

マチュピチュの高き峰。天に一番近い都で、天を見つめ、天と語らって生きた人々。

そのように君よ、だれが知ろうと知るまいと、烈風にそびえる精神の都を築け!

インカの石造建築は、石と石の間がカミソリ1枚通さないほど密着している。

その精巧さゆえに、征服者が建てた新建築が大地震で崩れても、インカの石組みは今なお、びくともしていない。

世界の広宣流布も『一人』また『一人』と、すき間のない絆を築いて、崩れない石垣にしてきたのである。

組織主義ではなく、個人の激励に徹してきたからこそ、どんな大難にも揺るがなかった。

74年、リマでの記念撮影会は炎天下だった。

同行した日本人の顔が一皮むけたほどの猛暑である。2千人の友と、私は撮影を7回繰り返した。

汗は滝のようだった。上着も取れない。

『この1枚の写真が、これからの皆さんの人生闘争を励ましてくれますように』
『共に生き抜き、共に幸せになっていかれますように』

記念撮影は集団が相手ではない。

私と『一人』そして『一人』との交流である。『一人』そして『一人』を私の胸に入れる戦いである。

疲れきった。しかし、世の中の不幸は、指導者が疲れるのを嫌って、要領ですませてしまうことにある。

その革命をしようとしている創価学会のリーダーが、疲れをいとって何ができようか。

撮影の合間には、清涼飲料インカ・コーラを運ぶ「コーラ・ボーイ」となって、みなに配った。

100箱くらいだろうか。励ましたかった。思い出をつくってさしあげたかった。

しかし体力は限界にきた。ついに私は体調を壊してしまった。腹痛と高熱が続いた。

日本を出て、アメリカ、パナマ、ペルーと歴訪してきた疲労も重なっていた。

絶対安静を勧められたが、私は動きたかった。
『戦いは始まったばかりだ!世界平和のために途中で死ぬならば本望だ』
ふらつく足で、リマ市庁舎にも行った。サンマルコス大学にも行った。夜遅くまで、若き友らに次々と揮毫を書いて贈り続けた。

そんな中で迎えた『世界平和ペルー文化祭』。
行くと、会場いっぱいに、心の光はあふれていた。

だれからも見えない裏方で、黙々と舞台背景の変化パネルを動かし続ける青年たちがいた。

5時間も立ち続ける整理班の青年がいた。

食費にもことかく中、毎朝5時に起きて魚料理を売って歩き、練習場に通う交通費を作った少女がいた。

インカでは「黄金」のことを《太陽の汗》と呼んだ。

おお、太陽の仏法を奉じた太陽の子らの青春の汗よ!
これこそ黄金だ。

文化祭のフィナーレ。

紙吹雪が舞った。

すべて花の形に切られていた。

一ひら一ひらに、平和への友の祈りがこもっていた。

紙は紙でなく、心であった。

この世で一番の宝であった。

私は、その一ひらを拾って、押しいただき、そっとポケットにしまった。