2016年11月5日 投稿者:寝たきりオジサン 投稿日:2016年11月 5日(土)01時18分11秒 通報 2001年3月23日 会場/練馬城西平和講堂 21世紀の創価学会の教学というのは、『法華経の智慧』から出発する、といっても過言ではない。『法華経の智慧』には、全てが入っている、と言われる。 全てというのは、釈尊から天台、伝教、そして日蓮大聖人、それから、牧口先生、戸田先生、池田先生という、創価学会の精神を含めて仏教三千年の精神が入っている、と。 仏法の教義、まさに本質に触れられている。ここに、新しい創価学会の教学の基盤がある。 今、なぜ『法華経』なのか? ということについて、大きく2つの点が挙げられる。 まず、「世界広布のための教学」という点。 池田先生は、「日蓮仏法だけでは、ただちに世界の人には分からない。だけども、『法華経・釈尊』であれば分かるんだ。だから、『法華経・釈尊』として、世界の人々を導いていくんだ」とおっしゃられている。 (須田全国副教学部長、ご自身の体験から) 10年前、インドで、ネルー大学やデリー大学の大学教授等と懇談の機会。SGIというのはどういう団体なのか、という説明を求められる。 「日蓮大聖人の仏法の団体」と答えたら、教授等はいささか 怪訝な顔。「南無妙法蓮華経の団体」と答えても、まだ怪訝な 顔.。聞けば、『日蓮』も『南無妙法蓮華経』という言葉も初めて耳にした、とのこと。日本の仏教に知識が無いと実感。 それならば、と、法華経『Lotus Sutra』と言ったら分かってもらえて、さらに、『釈尊』と言ったら、もっと興味深く聞いてもらえた。 「いきなり大聖人の仏法の中身をぶつけても、受けとめられる状態には未だない。だから、法華経から入っていくんだよ」との池田先生のお言葉の意味がよく分かったものである。 仏法には、あるいは、宗派を問わず、ひとつの教えというものには、序分、正宗分、そして流通分の3つの区別がある。 教えの一番の中心部分は正宗分であり、ここに導いてくるのを序分、人々に弘められていく役割を流通分という。 この原理によって挙げれば、末法の正宗分は何か? いうまでもなく、日蓮大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経。それが根本であり中心である。 これに対し、釈尊が遺した二十八品の法華経は三大秘法に導くための序分であり、流通分でもある。 池田先生は、「法華経が分かれば、大聖人の仏法が分かってくる。大聖人の仏法が分かってくると、法華経が分かってくるんだ。両者は表裏一体だよ。仏の心はひとつなんだ」と。 なぜ今、「法華経」なのか? ということに、少なくともひとつ言えることは、この21世紀の大きな広宣流布の流れを視野に入れて、それを進めるための教学を池田先生は考えてくださっている。 今の私たちへのご指導という面もあるが、池田先生の眼(まなこ)は、未来へ向いている。「世界の人類を大聖人の仏法の功徳に浴せしめなければならない」、と。そのための教学の展開である。 2つめには、「創価学会の正統性を証明する教学」という点について。「正しい伝統」ということ。 つまり、「仏教三千年の正しい伝統」を今日に継承しているのが創価学会であるということを、きちんと世界の人々に発信してゆかなければならない。 世界の人々には、創価学会/SGIというのが、まだよく分かってもらえてはいない。 カルトとかセクトとか、偏見の眼差しも多い。 SGIがこれほど短期間にひろがりをみせても、世界の人々にとっては受け止めきれない部分がある。しかし、この「疑い」や「偏見」をきちんと打ち破ってゆかなければならないのである。 宗教というものは、一般に歴史がながいものが多い。学会の歴史は数百年に渡るものでもないが、思想・教義の面から見れば、仏教三千年の正しい伝統を今日に継承しているのは創価学会で あることは明々白々。 仏教といえば、数え切れないほどたくさんの経典があり宗派がある。そのなかで、仏教の本流はどこにあるのか? といえば、なんといっても法華経に集約されているのである。法華経が結論なのである。 『三国四師』──法華経の精神をきちんと整理して示したのが天台大師。それを日本で弘通したのが伝教大師。そして、法華経の真髄を末法に弘められたのが日蓮大聖人。これが仏教の本流 である、ということが、『三国四師』という言葉の意義。 今日、この「本流」、仏法の本当の精神を受け継いでいるのは、大聖人直結の創価学会であると、世に宣揚しゆかなればならない。 次に、「日蓮大聖人と法華経の関係」について。 教学上、これは非常に重大なテーマである。なぜかというと、世間の人々には、ここのところが良く分からないからである。 世間の日蓮宗/五老僧の流れを汲む人々にとっては、法華経二十八品を修行して、法華経を弘めた方が日蓮大聖人、という理解なのである。 御書のなかでも、法華経を修行した者が法華経の行者ではないか、というのである。 そもそも、それが大きな間違いになっている。法華経二十八品を弘めたということでは全く無い。法華経二十八品を用いて南無妙法蓮華経を弘められたのである。 大聖人の御本意は、三大秘法の弘通にある。法華経二十八品は「手段」なのであり「目的」ではない。三大秘法を弘めるための序文であり流通文として用いられたにすぎない、ということが理解されていなかったのである。 この点を真に理解されていたのは日興上人おひとりであったのである。 法華経二十八品が偉大な経典であるということは、ある意味、天台・伝教が既に説いていた。大聖人は、天台・伝教と同じことをなさったのではなく、天台・伝教が弘められなかったところの「法」を弘められた。五老僧と日興上人の違いの根本がこの点である。 では、なぜ大聖人は法華経の身読ということをなさったのか。当時の人々の機根を整えるための御振る舞いであったと考えられる。 「どうしたら南無妙法蓮華経を信じさせることができるのか」と。 「機根」というのは非常に大事な問題。「化導」というのは、相手に聞く耳がなければ成り立たない。どんなに救ってあげようと思っても、ある程度聞き入れるだけの土壌が無いと、(すぐに信ずるかどうかは別にしても)話を聞かないというのでは、どうにもならない。 「法華経を身で読む」ということは、法華経を用いて、法華経に予見されている通りの数々の難、幾たびもの流罪に遭いながらも倒されないこと。大聖人は、あれほどまでの大難に遭いながら、しかし、誰ひとりとして大聖人を倒せなかった。 この事実は、敵対する立場の者たちであっても認めざるをえない、客観的事実なのである。 となると、人々は「日蓮はただ者ではない」と認めてくるのである。ただちに帰依できるかどうかは別にしても、この人の言葉には真剣に耳を傾けなくてはならない、という心が起きてくる。こうやって人々の機根がつくられていく。 それでは、『法華経』とはどういう経典なのか? 法華経の二重性といって、二十八品のうちの「第九・人記品」までは釈尊在世のときの衆生のために説かれた経典であり、「第十・法師品」から、釈尊滅後、なかんずく末法の衆生のために説かれた経典とに分けられる。 釈尊在世の衆生のために説かれたこととは、法華経が明かされてはじめて一切衆生が等しく成仏できる道がひらかれたということ。爾前経では成仏が叶わなかった悪人・女人、そして二乗でさえも、である。 そうではあるが、釈尊は特にこの「二乗」の声聞・縁覚の弟子たちにはことのほか厳しかった。 十大弟子であった舎利弗、可葉、阿難は、最高の知識人であり、常に人々をリードする立場にあったが、弟子としてどんなにがんばっていても、釈尊は決して誉めることは無い。 あるとき、説法の会座にかけつけた十大弟子のひとり、須菩提は、皆のまえで酷なまでに怒られる。まともに立って聞いていられないほどの怒りぶりに、手にもっていた托鉢を落としてしまうほど激しく諌められてしまう。 釈尊はどうしてここまで二乗に対し厳しいのか。それは二乗の命にある増上慢と自分の悟りにとらわれるエゴイズム・利己主義。二乗の者たちには、これらの点にとらわれ誠に成仏が叶いにくい。釈尊は二乗の命にとらわれる弟子たちは、何十年にもわたって叱咤を続けた。 そして、法華経の会座になってはじめて、実はすべての衆生が等しく成仏できることを明かしたのである。 釈尊自身が、一切衆生の未来の絶対の成仏を保証したのである。 こうして、法華経が説かれたことによってはじめて他の経典も意味をもち、釈尊一代の化導の結論が導かれた。 これを十大弟子に対する授記の説法という。 次に、第十・法師品からについて、ここからはトーンが変わる。 釈尊が自身の滅後のことを語りだす。入滅が近いことを明かすのである。誰がこの正法を伝え弘めてゆくのか、と弟子たちに問う。もちろん、弟子たちは「我こそ」と立ち上がる。 しかし、釈尊は、「末法には大難が吹き荒れる悪世である。その難に耐え、妙法を弘めるというのは、お前たちに出来ることではない。お前たちのような浅い境涯の者では到底出来ない」と厳しく語る。すると、目の前の大地が割れ、地の底から六万恒河沙の地湧の菩薩が現れる。そして、神力品で、地湧の菩薩の代表である上行菩薩に付属をし、また、全人類に向かって上行菩薩の化導に随うことが正しい仏道修行となることを伝えるのである。 こうしてみると、これは末法にどういう人たちが現れて、どういうふうに弘めていくかを予言している経典と言えるのである。 誰のために法華経は説かれたのか? 大聖人いわく、「日蓮等がためなり」。法華経は釈尊在世の衆生を救うために説かれたように見えるが、それは本意ではない。末法に出現する本仏の化導を助けるために、あらかじめ釈尊がとどめおいたのである。 そして、日蓮「等」という点。大聖人と同じお心で妙法を弘めゆく門下のために説かれた経典でもある。なかんずく、創価学会/SGIのことと言って過言ではない。なぜなら、創価学会/SGIが出現してはじめて、「南無妙法蓮華経」が現実の上でこれほどまでに世界に弘まったからである。今日、創価学会の世界広布を助けるための、その序文とし流通文として、役に立つためにとどめおかれた、私たちのための経典なのである。 まさに、仏のお心は甚深。何千年の時間をこえて遺した経典。法華経の本義は今日に現れているといってもよいだろう。妙法弘通のための経典であるから、民衆救済がないとき、ないところには、法華経の心は理解されない。 また、法華経は弟子が弘める経典である。救われる弟子から救う弟子へ。弟子の境涯が変革できてゆくのも、その力なのである。仏弟子であるならば、師匠と同じ心で妙法を弘めることである。 だからこそ、創価学会には法華経を語る資格がある。そう宣揚してゆくべきである。 広宣流布のたたかいをしている振る舞いに法華経を行じている姿があると確信していただきたい。 Tweet