投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年 2月22日(日)00時38分36秒  

執行部が師敵対であり、黒であることは、ほぼ確定した様相を呈していますが、そうなると、現学会は、師敵対の人間が指揮を執っていることになる。五老僧の如く、ずれた信心の人間が中心にいるとしたら、それは大変なことである。

本部の中には、少なからず疑問を抱いている人もいるでしょう。水面下で戦いを開始していたり、手を打ったり、逆に傍観決め込み、見ないふりをしている人もいるでしょう。人は自分にとって都合のいいものしか見ないものである。寸善尺魔という言葉の通り、魔は善の十倍勢力である。楽なほうに行きたい人間心理と、相反するのが魔との闘争である。善を為すには、勇気と生命力が必須であり、だからこそ「闘争」なのである。

人生の醍醐味は、弱小勢力が強者を倒すところにあり、改革においても、常に少数からはじまる。ちいさい者が大きい者を打ち倒すこと、それをジャイアントキリングといい、少年漫画の王道パターンでもあります。絶対強者に、追い込まれて追い込まれて、最後は覚醒して倒す。その過程に、少年たちは大興奮したわけです。一見越えられないような高い壁も、強靭な精神力と忍耐で状況を覆す様は、まさに人生と重なるところがある。人生はエンターテインメントであり、観衆が一番観たいのは、痛快なる「大逆転劇」である。

執行部が師敵対であることは、ほとんどの学会員は知らない。また、知らなくていい人もいます。試に私は、教学部レポートのことを友人(それなりの幹部)に語ってみた。純粋で真面目な友人は、何も知らなかったし、感想としては、「元気がなくなった」と。そもそも生命力が湧いて来るような話ではないし、良い話でもない。内部の悪と戦うには、ある程度の嗅覚というか、常に組織や幹部に対する疑問(問題意識)がなければ、いざという時に困惑する事態となる。本当に戦えるのは、日頃から思索し、問題意識のある人である。

私は、この掲示板を閲覧している人が、戦える人だと思っています。掲示板を見ることによって「知る」ことになるからです。知ること自体が使命であり、知ってしまった以上は放置することもできない問題なのです。師敵対の幹部と、どのように戦うかが活動のテーマとなり、一凶を禁ずる戦いが始まるわけです。

ジュリアス・シーザー
「何かを生み出す行動でなければ、行動とは言えない」

想いは形にしてこそ、想いであり、何もしなければ何も想っていないのと、結果的には同じである。幹部においては、どれだけ会員の声を形にすることができるかが問われるわけです。結局何もしない幹部の多さは、言うまでもないでしょう。学会活動も、ただやっていればいいわけではなく、どれだけの価値を生み出せるかが勝負であり、皆のやる気を削ぐような、無駄な会合や報告等は反価値である。

祈りとはまさに、「想いを形にする作業」であり、形にしてこそ、実証として示すことができる。祈りの具現化こそが日蓮仏法であり、信心即生活というものでしょう。簡単に勝てる戦いなど一つもありません。人は結果だけを求めがちですが、その結果がでるまで、どれだけの壮絶な闘争があるか。何かを勝ち得るというのは、常に十倍勢力との戦いであり、ジャイアントキリングなのである。