投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年 2月18日(水)22時22分56秒  

邪悪な人の特徴として、法華経の智慧(如来寿量品・十界論中)で、書籍「平気でうそをつく人たち」の内容が紹介されているので、いくつか挙げておきます。

・「自分には欠点がないと深く信じこんでいる」

・「彼らには善人たらんとする動機はないように思われるが、しかし、善人であるかのように見られることを強烈に望んでいるのである。彼らにとって『善』とは、まったくの見せかけのレベルにとどまっている」

・「邪悪な人たちの異常な意志の強さは驚くほどである」

・「邪悪な人間は、自分自身の欠陥を直視するかわりに他人を攻撃する」

::::::
組織や幹部の問題点を指摘すると、省みるどころか、攻撃される構図こそが邪悪である。これは修羅の命であり、「自ら省みること能わざる」姿である。教義変更のことや除名問題の根っこにあるのが、この修羅の邪悪な命であることは明らかである。

本部が伏魔殿であることは、比較的ポピュラーな議論として存在する。法主が狂うのだから、最高幹部だって狂うことは想定内であり、少し教学を学べば容易にわかることである。法主の次は、順番として本部が魔になることぐらいは、誰でも気づくレベルであり、目新しい話ではない。ただ、「意外と早かったな」というだけであり、驚くことではない。多くの会員にしろ、はじめは驚くでしょうが、すぐに気を取り直して、「さもあらん」と結論づけることでしょう。

将来的に、本部が宗門化し、それを擁護する日本の創価学会(法華講的立ち位置)対SGIという構図になってしまうかもしれない。執行部の権限を強化しすぎると、そのような方向に向かい、「逆らう者は処罰する」という流れが構築されたら、何が起きるかわからなくなる。その前例が宗門であり、結局、法主の暴走を止めることはできなかった。皆が気づいて立ち上がる頃には、手遅れである可能性は高く、悪は芽のうちに摘むのが鉄則であり、歴史の教訓でもある。

創価学会版C作戦として、幹部の悪事を露呈しようとする者を、「団結を乱す魔」として、カットカットの除名祭りがはじまるかもしれない。それが「広宣流布」、「正義」という名の下に執行される。根が深ければ深いほど、他者への攻撃性は常軌を逸してくる。何ていうことはない、宗門の破門が、学会においては除名としてあらわれるだけである。難癖をつけ、揚げ足取れば、処分なんていくらでもできてしまう。

悪事は必ず露呈する。情報化社会において、悪事をごまかしきることはもはや不可能である。ごまかせばごまかすほど、馬脚をあらわし、哀れな姿をさらし、ゲラゲラ笑われるだけである。これほどみっともない話はない。

本部にクラーク博士のこの言葉を贈ります。
「紳士たれ」