投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年 2月17日(火)20時46分4秒  

言葉や文字の中に想いが込められている。それはもはや、文字や言葉ではなく、心をあらわしている。
御本尊に認められている、「南無妙法蓮華経 日蓮」には、どのような想いが込められているか。

南無:梵語(サンスクリット語)
妙法蓮華経:漢語
日蓮:日本語

これは鎌倉時代当時、全世界をあらわしている。即ち、インド、中国、日本である。仏教史においても、インドから中国へ、そして日本へと伝わってきた。妙法蓮華経を梵語であらわすと、「サダルマフンダラキヤソタラン」ですが、それを採用しなかったのは、日蓮仏法は特定の地域や民族を対象とはしていないことを意味します。仏の想いは、全世界であり、「一切衆生」であることをあらわしているのが、「南無妙法蓮華経 日蓮」なのです。

「一切衆生を私(仏)と同じ境涯にしたい」、これが仏の願いであり、それを「如我等無異」といいます。法華経が師弟不二の経典といわれる所以もここにあります。日蓮大聖人と御本尊と自分自身、まったく差別なしであり、それを自覚し、題目を唱えることが肝要中の肝要であり、一大事なのです。このことを解った人を仏といいます。

御本尊は文字ではありますが、文字を通して、心をあらわしており、生命を表現しています。日蓮仏法は文底仏法であり、第三の法門です。次元は異なりますが、文底的な生き方をするのが仏法者というものであり、文字の根底にある心を観ていくこと、本質をとらえていくこと、それが智者というものでしょう。

私は、大御本尊に関しては、あくまでも一つの角度からみると、「御本尊におけるルール」であると考えています。問題はどのような想いでそのルールがつくられたのかが重要だと思うのです。本来、御本尊には大も小も、別体も総体もなく、すべてが一切衆生のための御本尊でしょう。だけど、あえて「大」をつけて立て分けしたのには理由があることでしょう。どんなことにもある一定のルールが存在します。もし、かりに日寛上人が「すべての本尊は本門の本尊である」と解釈していたら、御本尊の無秩序状態が生まれ、大聖人真筆本尊を大切にされた日興上人の御心を踏みにじることにもつながったことでしょう。

ルールをいいことに、それを悪用し、自分たちの権威付けに利用したのが日顕宗であり、許されるべきことではありません。学会においては、教義変更を推進する根底の一念が、本当に世界広宣流布のためなのか、それとも権威付けのために利用しているのか。「仏意仏勅」という言葉も悪用すれば、日顕宗と変わらない。根底の一念がズレていると、必ず、現実世界で、何らかの弊害が生じます。これはごまかせないのです。なぜならば、仏法は行動の因果ではなく、一念の因果だからです。

一念をみていくのが仏眼であり、中心となる人間の一念がズレていたとしたら全体がおかしくなります。これが道理であり、教学部レポートや遠藤文書の流出は、只事ではないことを意味します。弊害が生まれている証拠であり、何か狂いがあるということなのです。根底の一念が、「広宣流布」「令法久住」なのか。それとも、「名聞名利」や「嫉妬・怨嫉」なのか。一念を自覚していきたいものです。