投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年 2月15日(日)01時54分7秒  

新・人間革命 大道4を読んで、率直に感じたことは、「これは弟子の尻拭いだな」ということです。
そして、大御本尊と御本尊の違いが明確になりました。正直、度肝を抜かれる解釈だと思いました。

大御本尊=自分自身
御本尊=己心の宝塔を顕現させるための生命の明鏡

大御本尊を自分自身と位置付けるとは恐れ入りました。この根底にあるものは、「人間のための宗教」であるということではないか。宗教(御本尊)のための人間ではなく、人間のための宗教(御本尊)。だからこそ、自分自身が大御本尊なのであると。

教義変更は、完全に失敗でした。執行部では収拾がつけられないし、どうにもできないレベルになっていた。下手をしたら、致命的なダメージとなり、世界広布草創期でありながら、早くも躓きかねない事態にまで陥るところだった。先生は弟子を守ったのだと思う。この解釈では、もちろん過去との整合性や宗門が容認するわけがないので、攻めてくるのは確実ですが、その矛先はすべて先生に向かう。それと引き換えに、会員の混乱・困惑を払しょくすることができたのではと考えます。

戸田先生が、滝本欣也を守ったように、腐った弟子でも反逆しない限りは守り続ける。それが師というものではないか。先生は弟子や会員を守るためなら、どんな泥もかぶるだろうし、何でもすると思います。師の心はわかり難しですが、54年もそうですが、今回も全部尻拭いするつもりなのではないか。そこに熱いものを感じます。

同時に、この解釈でいくと、どの御本尊も大御本尊とはなり得ないので、大誓堂の本尊を大御本尊とすることはできません。聖地化もまったく不要となり、執行部に対して釘もさしている。好きなようにはさせないでしょう。

本部は私たちが思っている以上にドロドロで、権力闘争、派閥争いがあるのだと思います。そんな腐った弟子ですら、会員を苦しめないためにも、守らなければならないというのが師の立場であり、それが創価学会名誉会長なのではないか。

会則変更は一度決めたら取り消すことはできない。後戻りはできず、それでも広宣流布をやらなければならない。腐った弟子、足を引っ張る弟子をも背負い込んで、前へ進む。それが「師」であり、創価三代の精神なのではないか。私はそのように感じるのです。

池田先生 法華経の智慧 如来寿量品 永遠の生命とは(下)より
「弟子を立派にしたいと思わない師匠はいない。しかし、師匠のその心は、弟子には、なかなかわからない。親が子を思うほど、子は親を思わない。互いに思ってこそ『不二』になる」

先生には悠々自適に暮らしてほしいのに、まさかこんな稚拙な教義変更で煩わせてしまっていることは、弟子としては最悪な部類に入るでしょう。この期に及んで、まだ先生に頼っている情けない弟子の姿。それでも弟子の成長を信じ、守ろうとする師の慈愛。これが仏法の世界であり、師の胸中ではないか。師が弟子に思いを馳せるように、弟子もまた師に思いを馳せることが大事であり、今回私は、そういう「気づき」を得ました。