投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年 2月 9日(月)22時34分32秒  

会則変更で、大御本尊という絶対的な存在ですら、不動のものではなかったという事実を突き付けられたことは、一体何を意味するのか。御本尊根本という言葉の中には「それだけは間違いはない」というニュアンスが含まれる。疑う余地のない御本尊ですら、疑うべき対象となった今、それは、何が正しくて何が間違っているかがわからなくなったことを意味するのではないか。

閲覧者の多くの人はおそらくこのように思っているのではないか。
「創価学会は本当に正しい団体、仏意仏勅といえるのか」と

歴史にもしもはないのだが、仮に学会が宗門から破門されていなかったとしたら、同じような教義の解釈変更を行おうとしただろうか。まあ、そんなことをしたら、それ自体が破門事項に該当してしまうだろうけども。だけど結局、僧俗和合していたら、間違った本尊観の元、今でもそれが絶対だと教え続けていたことでしょう。他宗が、「御本尊はすべて本門の本尊だ」などと主張したとしたら、学会が真っ先に、「大増上慢」、「大謗法」と呵責したに違いない。「よくよく調べたら、その通りだ」と認めることなどないでしょう。

教義というものは、自分たちの立場や状況によって変わってしまうものでしかない。なんと曖昧で御都合主義のものであろうか。今回それが証明されてしまった。教団にとって都合のいいように解釈を変えていき、自分たちが正統であると、声高々に宣言する。なんともまあ、浅はかな話である。

無理が通れば道理は引っ込む。大組織の、多数の人たちが、それが正しいと言い続ければ、それが正しいことになる。そしてその正しいことに反対する人間は、団結を乱す魔であり、組織を混乱させ、広宣流布を妨げるので駆逐すると。こういう世界をつくるのが第六天の魔王の目的でありましょう。カオスの状態をつくり、正しいことは何かをわからなくすること。それが狙いなのであります。

だからこそ、心ある人は、教義変更を全力で阻止しようとしたのでしょう。取り扱う問題に対して、心構えが軽すぎる。活動家の多くも、上層部が決めたことだから間違いないと考えがちであり、組織論としては、組織で決まったことに従うのは正解でしょう。しかし、信仰者としては間違いなのです。組織に対して無謬性をもってしまうことは、邪教化への因となるからです。

池田先生 師弟の宝冠VOL.6より
「もしも将来、人々を救う慈愛も、祈りも、力もない幹部が、偉ぶったり、幅を利かせるようなことがあれば、そのような学会は、真の学会ではない。」

先生の指導は広宣流布のための伏線です。そのようにとらえて学んでいくことが弟子の姿勢でしょう。私は今の学会は、真の学会ではないと判断しています。池田門下の手によって、真の学会をつくる戦いがはじまったと見ています。そして、その反面教師となるのが宗門の存在です。「こうなってはいけないよ」という見本。宗門の存在は、広宣流布の反面教師への壮大なる伏線。すべての事象には役割があり、それを活かしきるのが仏法なのです。
一人ひとりが真の学会とは何かを祈り、考え、行動を起こすこと。真の池田門下として立ち上がることが、今、求められていることなのではないでしょうか。