投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年 2月 8日(日)23時42分7秒  

信濃町の人びと様

師敵対の幹部は糾弾されなくてはなりません。今回の会則変更に関して、会長が「一念に億劫の辛労を尽くして祈り考え、どうしても本尊に関する解釈を変更しなければ、後々の禍根となり、広宣流布の妨げとなってしまう。会員皆様には、混乱や困惑をさせてしまうかもしれない。それは心苦しく、居てもたってもいられないが、断行しなければ、マイナスとなる。苦渋の決断ではあるが、広宣流布を考えたら、やらなければならない。」との思いがあったのならまだしも、教学部レポートを読んだり、現実の対応をみたり聞いたりしたところから考えると、そういう一念を微塵も感じません。

教学部レポートを怪文書というのなら、まったくの事実無根のつくり話なのか、それともおおよそは合っているが、表現が違っていたり、意図していないことが伝わっていたりしているのか。だとしたら、どこが間違いで、どこが合っているのか。そのあたりを明らかにしてもらいたいものです。

御本尊のフラット化が行われ、すべての御本尊が平等となった今、もしも学会が大誓堂の御本尊を大御本尊としたのならお笑いです。「平等じゃないじゃん」というツッコミとズッコケが同時におきます。結局そうもっていきたかっただけと判断します。

拙速な教義変更をした執行部は、おそらく人の心がわからないのではないかと思います。そして、会員を甘くみている。先生がいようといなかろうと、会則変更が正しいことなのであれば、堂々とやればよろしいのではないでしょうか。もちろん会員への圧倒的な配慮、気配り、フォローは大前提です。それが池田門下でしょうし、創価学会の精神でしょう。執行部のズレズレの一念、ここに極まれりといったところです。