投稿者:臥子龍メール 投稿日:2016年10月 2日(日)17時41分29秒   通報
銃社会のアメリカならでの事件が後を絶ちません。
中東ではイスラエルのペレス元大統領が亡くなりました。
日本は如何?
政治家や国民の公僕たる公務員の不正が後を絶ちません。
何のために公明党が結党されたのか?
原点を忘れた人々に最早正義を語る資格は無い!

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遠藤 ロスアンゼルスでは、その前年の一九九二年、黒人による″暴動″の悲劇が起きたばかりでした。白人の警官が、無抵抗の交通違反者の黒人に暴行を加えた事件で、警官に無罪の評決が下ったことに端を発した惨劇でした。

池田 差別は絶対に悪です。「顛倒の心」は、自他ともの生命を傷つけてしまう。

人種や民族に、自分たちの″ルーツ″を求めても、それは虚構です。砂漠に浮かぶ蜃気楼のようなものだ。人類共通の″生命の故郷″にはなれない。

むしろ、他者との差異ばかりを際立たせ、対立・抗争の元凶となってしまう。

今、求められているのは「人間観の変革」です。

これが変われば一切が変わる。

人間よ、国家や民族の軛くびきにとらわれるな。また、自分を無力な存在と思うな。物質の集まりにすぎないと思うな。遺伝子の奴隷とも思うな。本来はもっと無限の、大いなる可能性をもつ存在なのだ──と。

本来、人間は、宇宙と一体の大いなる存在なのだ! 個人の力は、かくも偉大なのだ! これが法華経のメッセージです。

遠藤 だからこそ「希望の経典」なのですね。

「心」は「脳の働きにすぎない」か

須田 現代を代表する人間観のひとつは、「人間は生物組織によってできている一種の機械」であり、「心」といっても「脳の働き」にほかならない。脳の研究が進めば精神現象のすべては解明されるというものです。

斉藤 くわしく論じる時間はありませんが、「実際には、脳の研究が進めば進むほど、脳の神経活動と精神現象のいずれもがその驚異をいっそう増しながら、両者はまったく別の存在であることが一層明らかになってきている」という指摘もあります。(前掲『心は脳を超える』)

池田 「脳」は「心の道具」であり、精神現象が働く「場」であるという考え方もある。

脳の働きなくして、心は自己を表現しようがないが、両者はあくまで別の存在です。現代的に言えば、脳はすばらしいコンピューターであるが、あくまで道具である。それを使っている主体は「心」である──とも言えるでしょう。

人間の「心」は、多くの現代人が考えているような、身体や脳の中に″閉じ込められた(局在的な)″存在ではない。そのことは、科学的研究によって解明されつつある。心はもっと広大で、物質的な束縛を超えた広がりを持っているのです。

たとえば、アメリカの臨床医師ラリー・ドッシー博士は、こう述べている。

「心は空間や時間に制約されず、人間同士の意識を結びつけるものであり、肉体とともに滅びるものではない」(『魂の再発見』上野圭一・井上哲彰訳、春秋社)

時空を超えた「心」とは「非局在的な心」──すなわち小我を超えた広がりをもつ心のことです。

「もし非局在的な心が実在だとするならば、世界は孤独と分離ではなく、相互作用とつながりの場になる。そしてもし人類が非局在的な心を実感することができれば、新しい価値基準が生まれる。人間や国家を長年支配し続けた狂気から、あっけなく抜け出すことが可能かもしれない」(同前)

遠藤 心の無限の広がり──。「一念三千」の法理が示しているのも、まさにその一点ですね。

斉藤 「一生成仏抄」の「此の一念の心・法界に?満へんまんするを指して万法とは云うなり」との有名な一節がありますが、仏法の生命観に科学が接近している感があります。

真の法華宗とは「人間宗」

池田 さらに、博士はこう論じている。「何百年にもわたって受け入れられてきた人間に対する概念そのものを変えなければ、この地球に未来があるかどうかは疑わしい。もし明日があるとすれば、地球と地上にある一切のものに対する聖なる敬意が再び生まれなければならないからだ」(前掲『魂の再発見』)

この「人間に対する概念そのもの」を大転換していくのが仏法です。それは知的転換にとどまらず、慈悲の実践という、振る舞いの変革になって現れる。人間自身の「境涯の変革」ということです。地涌の菩薩の登場は、その壮麗なる号砲といってよい。

端的に言えば、真実の「法華宗」とは、「人間宗」なのです。このことは戸田先生も言われていた。

斉藤 人間こそ偉大──ということで、興味深い言葉があります。アメリカ・ルネサンスの旗手エマソンが言った次の言葉です。

「いま世上に行われている『キリスト教への信仰』は、『人間への不信仰』にほかならぬ。(中略)キリストは人間の偉大さを説いたが、私たちはただキリストの偉大さだけを聞かされている」(「たましいの記録」『エマソン選集7』小泉一郎訳、日本教文社)と。

池田 エマソンらしい洞察だね。そうなのです。″神聖なるもの″、は国家でもイデオロギーでもない、また超人的な神や仏でもない。

地涌の菩薩は、じつは仏です。しかし、仏というと、どうしても超越的な感じに見られてしまう。地涌の菩薩は、あくまで「修行する人間」としての菩薩に徹している。人間に徹しているのです。ここに重大な意義がある。

「人間」への信頼、「人間」への信仰──その復権こそ、われわれが論じ合っている「二十一世紀の宗教」のカギなのです。ある意味では、偉大なる「人間教」「生命教」の登場を、世界は待ち望んでいるのです。

須田 時代の最先端ですね。

池田 たとえば、今世紀の大変動の一つであるソ連邦の崩壊なども、根本は「人間自身」の内面の渇きによるものといえるかもしれない。

遠藤 そう言えば、イスラエルのシモン・ペレス元首相(ノーベル平和賞受賞者)は、こう述べていました。

「ソ連は、アメリカの圧力やヨーロッパの内政干渉、中国の脅威を受けて崩壊したのではない。圧力は外部からかけられたのではなく、内部から吹きだしてきた。人間の組織におけるとてつもなく大きな変革が、軍隊の銃も、政党の旗じるしも、大国の脅威もなしに起こったのである」(ネイサン・ガーデルズ編『知の大潮流──二十一世紀へのパラダイム転換』仁保真佐子訳、徳間書店)と。

須田 ″外からの力″による崩壊ではなく、″内からの叫び″による破綻であったということですね。

遠藤 ペレス氏は、この当時に見たある鮮烈な映像について語っています。

──それはゴルバチョフ大統領へのクーデター未遂事件が起きたときの報道であった。

モスクワの″ホワイトハウス″であるロシア共和国最高会議の建物の前には、大勢のソ連軍兵士の姿があった。

「兵士たちは『誰がかまうものか』と言いたげな冷めたようすだった。そのとき突然一人の″おばあさん″が兵士たちのところに来て、『子供たち、こんなところで何をしているんだい。さっさとお帰り!』と怒鳴りつけた。まるで″おばあさん″がソ連軍の唯一の指揮官であるかのようだった」「ソ連が打倒されようとする時、軍はもはや中立を保った。より正確に言えば、傍観していたのである」(前掲、引用・参照)とペレス氏は回想しています。

斉藤 緊迫した場面なのに、ものすごい勇気のあるおばあさんですね。学会草創から戦い抜いてこられた「多宝会」のおばあちゃんのようです。

池田 いざという時に強いのは庶民です。庶民のなかで鍛え抜かれた「人間そのもの」が輝くのです。この「人間そのもの」を最高に輝かせるのが、妙法の信仰です。

日蓮大聖人は叫ばれた。「地涌の菩薩のさきがけ日蓮一人なり」と。この一節が、私には万感の思いで迫ってくるのです。

「人間革命」の大闘争は、人類が待ちに待っていた生命の夜明けです。歴史の夜明けです。これこそ、生命の根底からの人間の解放です。永遠の次元にわたる人間の解放です。そのために、大聖人が一人立たれた。

この「地涌の法旗」のもとに、久遠からの不思議なる縁をもって馳せ参じたのが私どもなのです。「我いま仏の旨をうけ」(「同志の歌」)──と。

それを思えば、どれほどの使命があるか。どれほどの力がわくか。百万馬力のエンジンにギアを合わせたような自分自身となれるのです。