投稿者:螺髪 投稿日:2016年10月 3日(月)06時31分19秒   通報 編集済
おはようございます。

私には、ずっと手放せない言葉があります。どういう言葉かというと、「信じる心」という言葉です。「自信」や「確信」というのは、自身の何かを信じるというのではなく、「信じるもの」があるということのようです。それは同時に、法報応の「三身」や法身、般若、解脱の「三徳」の哲理からいうと、「智恵」や「徳」でもあるようです。「智慧」や「徳」があるからこそ、そこに立脚できます。

有名な法華初心成仏抄に次の一節があります。
「我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり」(法華初心成仏抄P557)。

一生成仏抄の講義で、池田先生は、妙法蓮華経を「究極の妙理の名」、そして南無妙法蓮華経は「それを顕現した仏の名」とされております。
己心にその「妙法蓮華経」や「南無妙法蓮華経」があるといわれても、凡夫にはなかなか解りません。だが、ただひとつ、「ある」と信じれば、その「ある」と「信じる心」は「ある」ことが解ります。実感できます。

デカルトの「我思うゆえに我あり」に習って言うなら、「我信じるゆえに(我)信あり」と言えましょうか。
それは、「始聞仏乗義」で習った煩悩、業、苦の「三道」即「三徳」へのキーワードとなる「信ぜば」の三文字と軌を一にするものではないでしょうか。
「妙楽云く若し三道即是れ三徳と信ぜば尚能く二死の河を渡る況や三界をやと云云、末代の凡夫此の法門を聞かば唯我一人のみ成仏するに非ず父母も又即身成仏せん此れ第一の孝養なり」(始聞仏乗義P984)。

そのための「唱題行」です。そのための「御本尊」です。
人間の精神活動の中に生まれる、その「信じる心」は、心そのものを和らげ、それによって新たな創造の意欲をももたらしはしないでしょうか。円満にもなり得ます。そして清浄です。

「信じる」ということはまた、「決める」ことでもあります。
同じ一生成仏抄講義でこう語っていて下さっています。

「『“我、妙法蓮華経なり”と決めよ』と戸田先生は言われた。
『妙法』は、万人の苦悩を除く大良薬である。また、万人の幸福を実現する大宝蔵です。その妙法を根本に、そして妙法に徹して、生ききるのです。自身の生命を妙法に染め上げるのです。自身の生命を妙法で固めるのです。=中略=
『我は妙法蓮華経なり』との深い信心を貫くならば、勇気をもって、いかなる課題にも挑戦していける。勇気を現していけるかどうか、そこに人生勝利の鍵があります」(一生成仏抄講義P77~78)
とされています。

せっかちな私などは、この「信じる心」を南無妙法蓮華経としてしまいたいところなのてすが、そうもいきません。ご教示がある以上、それに従うべきです。こんな御文があります。

「信は智慧の因にして名字即なり信の外に解なく解の外に信なし信の一字を以て妙覚の種子と定めたり」(御義口伝P725)。

御義口伝の信解品の箇所です。
ここでいう「智慧」は、「仏の智慧」といっていいでしょう。「名字即」とは菩薩の修行の位の「六即」の二番目で、初めて聞く言葉(名字)によって理解することを意味します。

少なくとも、「信」が菩薩最上位(五十二位)の「妙覚」という「仏」の「種子」であることは確かなようです。

とは言え、人間というのは「三失心」の生きもののようです。すぐ、「上慢」に陥ったり、「我慢」を決め込んだり、「不信」を構えてしまいます。大聖人を除いて、全員です。
そのゆえに、
「但仏界計り現じ難し九界を具するを以て強いて之を信じ疑惑せしむること勿れ」(如来滅後五五百歳始観心本尊抄P240)
なのではないでしょうか。

そこで重要になってくるのが「報恩」です。恩に報いるとは、義務とか、礼儀とか、常識とかの次元ではないようです。
この世に生を受けて、父母に抱かれ、回りの衆生に育まれ、その国の国主に護られ、そして仏・法・僧伽の三宝に導かれ、「人」として育っていきます。その恩に報いるということは、実際的に、自身の中に「帰す」べき空間、「帰す心」を創り上げているのではないでしょうか。それは、「信じる心」とまったく同次元のものだと思えるのです。自分の前や頭上に「偉大なるもの」を置くことと同じようです。
池田先生が、未来部に対して事あるごとに、「お父さんお母さんを大切に」とされているのも、そのことだと捉えています。

元プロテニスプレイヤーの杉山愛さんがあるTV番組で面白いことを言っていました。

「私は母から子供は社会からの預かりものとして育てられました。立派に育て、大きくなったら、社会に貢献するように、社会にお返しするものというように。だから、いろんなことで強制はありませんでした。自由でした。その代わり、途中で投げ出すようなことをやると、『それでいいの!』と厳しかった。テニスを始めたのも自分の意思でした」(趣旨)と。
恵まれた家庭に育った人の優れた点は、「空観」をとることがうまいことでしょうか。「澄んだ心」だからこそできることです。そして、その「空観」を組み立てるのが実にうまい。

私なんかは、「貧乏人と病人の集まり」(笑い)の中で育ちましたから、ドロドロ、ゴテゴテの「屈歩虫(くっぷちゅう)」です。「屈歩虫(くっぷちゅう)」というのは、「尺取り虫」のことです。一つひとつの、目前の難関を「尺取り虫」のように乗り越えてきました。大きくなって、羽化しても、「蝶」にはなりません。「蛾」になります(笑い)。

この「屈歩虫(くっぷちゅう)」の話は、法華経の智慧にありました。二乗と無色界とではどう違うのかの箇所でした。

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名誉会長「喜びにも、いろいろある。『欲界』の欲望を超えて、純粋な知的欲求とか、美への欲求、崇高な境地を目指す精神的欲望もある」
遠藤「それらの高次元の欲求が満たされていくのが『色界(色天)』『無色界(無色天)』だと思います」
斉藤「いずれも、真理を求め、その欲求が満たされていく境涯といえるでしょう」
須田「それは、二乗とは、どう違うのでしょう。とくに『無色界』と『二乗』は、精神的に到達する境涯が似ているように思えるのですが」

名誉会長「二乗は、到達したそういう境涯をも絶対視しないのです。とらわれない。
無色界が自分の境地を究極のものと思っているのに対し、二乗は、成仏へと、さらに進むための“途中”ととらえている。とらわれない。縛られない。『空』と見る。すべてを縁起(縁によって起こる)と見る」
須田「ものごとを縁起的に見るというのは、どんなものでも、ある因とある縁が結び合ってなりたっている、『すべては互いに依り合ってそんざいしている』と見ることですね」
斉藤「そこにまた新たな因と縁が加われば、すぐに変化してしまう。ですから、どんなものでも、因と縁が仮に和合して成り立っていると見る。いわゆる因縁仮和合です」

名誉会長「人間もそうです。自分といっても、仮に、こういう姿を取っているに過ぎない。だれも変化を免れない。健康な人でもいつかは病み、死んでいく。うら若き乙女も、あっという間に、孫をあやすようになる(笑い)
『自分とは何か』――そう考えても、十年前の自分と今の自分は違う。変わらぬ自分というのはないのです。
ゆえに、自分への執着(我執)を離れよ、と説いたのが仏教です」
=略=

名誉会長「=略=この世に無常でないものは何一つないと見て、だからこそ前へ前へ、永遠に前進し、向上していくのが、真の二乗です」
斉藤「そうしますと、二乗が、自らの到達した境地を絶対化し、安住してしまえば、もはや二乗とはいえないということになりますね」
名誉会長「そう。六道です。無色界の衆生は、天界の頂上である『有頂天』に立った思ったとたんに、そこから堕ちていく。それと同じです」

遠藤「やはり人間『有頂天』になってはいけない」(爆笑)
須田「大聖人は『開目抄』で『上・色・無色をきわめ上界を涅槃と立て屈歩虫(くっぷちゅう)のごとく・せめのぼれども非想天より返って三悪道の堕つ一人として天に留るものなし』(御書187㌻)と仰せです。
<(いわゆる善き外道といわれた者は)上は色界・無色界をきわめ、上界を悟りの世界と立てて、尺取虫のごとく、一歩一歩修行してのぼったけれども、非想天(無色界の最高位)から、かえって三悪道に堕ちてしまい、一人として天界に留まるものはなかった>」
名誉会長「彼らは一生懸命苦行して、一歩ずつ登っていったのに、最後は、まっさかさまに転落してしまう。それはなぜなのか。いろんな観点があるが、やさしく言えば、苦行によって得た境涯には『無理がある』ということでしょう。無理があるゆえに、長くはそこにとどまれない。=略=

『無色界』も、それなりに自分の境涯を変えようとしたわけだが、そこには正しき『生命の法』への智慧がない。そこで、どうしても無理が出る。背伸びしているだけで、ちゃんとした足場がないから、また、もとの世界に堕ちていく」
斉藤「自分自身を宮殿のように変えていく『生命の法』が『妙法』ですね」
名誉会長「結論すればそうです」

須田「大聖人が、法華経でなければ六道を脱却することはできないととかれている(御書418㌻、趣意)ことの意味がよくわかりました。二乗も、妙法によって、はじめて六道を超えられるということですね」
名誉会長「ともあれ、欲望とか、快楽といっても一様ではない。ゆえに、それらが満たされた境涯もまた多様です。こうは言えないだろうか。自分なりの目標をもって生きて、それを達成した喜びの境地が『天界』であると。=略=」(同④P174~180)
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変な意味に響いてはいけませんが、「苦行によって得た境涯には『無理がある』」という箇所です。
苦行によって現実の生活を開いていくわけですが、だが、そこには「苦行によって得た境涯」だけに「無理がある」ということになります。先に述べた趣旨に沿っていうなら、「空観」ができない、それを組み立てるのもおぼつかない。「澄まない」ということでしょうか。
その意味で、私は「恵まれた人」を敵視もしませんし、もちろん蔑(さげす)みもしません。要は「役割」です。「使命」です。「恵まれた人」にも、その世間の中で艱難はありますし、苦闘があることは間違いないからです。ただ、恵まれた人が、その境遇におぼれて、屈歩虫(くっぷちゅう)の人を蔑(さげす)んだり、利用しようとしたりするようになれば、これはもう「悪」ですから、摘発しなければなりません。

「屈歩虫(くっぷちゅう)」の立場から述べさせて頂けば、そのかけがえのない「信」を自身の中に開くには、「唱題行」ということ以外では、「四恩」に報ずることしかないのではないかと思えるのです。父母、衆生、国主、三宝への報恩、さらに報恩抄では衆生を父母の中に入れ、「師匠」への報恩を建てられておられます。
その「恩」に報ずることによって、人は「三失心」から解き放たれ、初めて「信」を頭上に開くことができるのではないでしょうか。

人は、その宿命、宿業、宿縁によって、家庭に恵まれない人も、人に恵まれない人も、いっぱいいます。国主といっても、いまは民主主義の時代ですから、衆生の中に含まれるのかもしれません。三宝といっても「師匠」です。師匠を通してしか三宝は分かりません。「師匠」によって、恵まれなかった境涯を補えられるということになります。
ゆえに、池田先生は、法華経を、日蓮大聖人仏法を「師弟の宗教」だとされました。

池田先生の「生死一大事血脈抄講義」でこう仰せです。
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「法とはこのようなものである」という理論的な教法や、「煩悩を乗り越えなさい」というような実践的な教法を教えられても、その教えだけでは仏の境涯が伝わるわけではありません。
むしろ、教えの言葉とともに、仏の人格的触れ合いによって触発されることによって、我が内なる「法」を覚知することができるのです。これが「法」が伝わるということです。
仏法において「師弟が重要な意味を持つ理由が、ここにあります。師弟の「人間」対「人間」の絆を通してのみ「法」は伝わり、「法」に基づく人間革命が可能となるのです。(P163)

多くの人が、それぞれの人生において「信心の血脈」を確かに受け継いでいくためには、その全体像を体現した「師」の存在が決定的に重要なのです(P226)
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「三失心」は、平たく言えば“横着”です。「欲望」の虜になって“横着”になります。欲界には、貪りも、瞋りも、愚かも、修羅もあります。天界に入っても、六欲天の他化自在天があります。これも欲界です。
「三失心」を逃れるもう一つの方法は「叱られる」ということでしょうか――。