投稿者:無冠 投稿日:2016年 9月14日(水)07時56分7秒   通報
全集未収録のスピーチ144編の各抜粋(聖教新聞 2006.5~2010.4)を掲示します。

2008-8-20 【8・24記念各部合同協議会】

■ 一、未来を開く協議会、ご苦労さま! 役員の皆さんも、ありがとう!(大拍手)
 いよいよ、新しい時が来た。
 いずこにあっても、「地より涌き出でんとする」ごとく、新しい地涌の人材が、生き生きと躍動し、登場している。
 「人材、人材の創価学会でいけ!」とは、わが師・戸田城聖先生の叫びであった。
 先生も、どれほど喜び、見つめてくださっていることか。
 インドの詩聖タゴールは、戯曲の中で、民衆の代表に、こう語らせている。
 「王様はわれわれの一人一人を、王冠をかぶった王になさっているのだ」

一方、でっち上げの王を、こう戒める。
 「偽りの王よ。あんた自身があんまり尊大ぶりを発揮されたのですよ。あんたの頭はもうすぐ塵にまみれるでしょう」(姥原徳夫訳「暗室の王」、『タゴール著作集第6巻』所収」第三文明社)
 真実の王は、民衆一人一人を王にする。
 偉ぶって、自らを飾るのは、偽りの王だ。
 我らは信仰の王者である。折伏をしている人が偉い。それを下に見たら、罰を受ける。
 リーダーは威張ってはならない。本当に偉大な人は謙虚である。外面を繕い、虚栄でわが身を飾る人間が、上に立ったら大変だ。
 仏法者ならば、根底に慈悲がなければならない。その上で、「強敵には強く」「弱者には温かく」「同志には優しく」。そのように私は心してきた。
 これを戸田先生は見逃さず、「それが、お前のいいところだ。ほかのだれにもできないな」と、おっしゃってくださった。
 まずリーダー自身が人間革命するのだ。そこから一切の勝利は始まる。
 明るく朗らかに、誠実に、皆と調和して、守り合い、尊敬し合って、素晴らしい歴史を築いていただきたい。
 何でも語り合い、励まし合いながら、気持ちよく、ともに広布へ前進していきたい。

● 平和と文化の城は今、全世界に
 一、御本仏であられる日蓮大聖人は、「諸法実相抄」に仰せになられた。
 「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり、日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや」(御書1360ページ)
 この御聖訓の通り、末法濁悪の現代に妙法を唱え弘めゆく「地涌の菩薩」を、先頭に立って呼び出されたのが、初代・牧口常三郎先生であり、2代・戸田先生である。
 蓮祖が示された「地涌の義」のままに、私は、願い求めた師匠である戸田先生と巡りあって、広宣流布の大願へ、勇猛精進を開始した。
 それは、昭和二十二年(1947年)の8月のことであった。
 今年で六十一年となる。
 戦後間もなかった当時、西神田にあった旧学会本部は、木造で3階建ての小さな建物であった。
 それが信濃町に移って、この秋で55周年。日本中、また世界から多くの友が集い来る、喜び光る宝城となった。学会の会館は日本だけでも約1200になり、あの国にも、この国にも平和と文化の城がそびえ立つ。
 これらもすべて、一切をなげうって師匠に尽くし抜いた福運である。尊き同志の信心の結晶である(大拍手)。

● 師と「同じ心」で
 一、法華経は、「不惜身命」であり、「死身弘法」である。
 牧口先生は、法難の獄中で、殉教なされた。
 戸田先生は、その牧口先生にお供したことを、最大の喜びと感謝された。
 勇んで、その弟子となった私である。「三障四魔」「三類の強敵」との戦いは、もとより存知の上であった。
 仏法のために、師が命がけならば、弟子も命がけで戦う。それでこそ「不二」の境涯となる。師と「同じ心」で戦うから、いかなる障魔をも打ち破っていけるのだ。

● 「師恩」こそ正道
 一、人間として歩むべき正道は何か。
 「開目抄」には、こう仰せである。
 「聖人・賢人といわれる二種の人たちは、孝の家から出ている。まして仏法を学ぶ人が、どうして恩を知り恩を報ずることがないことがあろうか」(御書192ページ、通解)
 仏法においては「師恩」を重視している。
 私自身、戸田先生のために、尽くしに尽くし抜いた。
 先生のおっしゃられる一言一旬に感謝しながら、すべてを前進の力に変えていった。
 先生は、何かあるたびに「大作!」と私を呼ばれた。
 生涯の願業を成し遂げられ、亡くなられる前に先生は「本当に、いい弟子をもった。おれの最高の幸せだ」と喜んでおられた。美しい師弟であった。
 一方、忘恩こそ、人間にとって最も恥ずべき行為である。
 ドイツの文豪ゲーテの指摘は鋭い。
 「冷やかな無関心がしだいに優位を占め、ついには、恩恵者を無縁の者の如くに見、時によっては、自分の益にさえなれば、恩恵者の害になるようなことでも企てかねないようになる。これこそが真の忘恩と呼ばるべきものである」 (山崎章甫訳『詩と真美』岩波文庫)
 忘恩は「無教義な人間」が陥る。報恩は「すぐれた人間」だけに生ずる。こうもゲーテは書き残した。

 一、私は青年を信じる。青年が頑張れば、学会は明るくなる。
 戸田先生は、ある時、女子部の友に語られた。
 「信心が中途半端、人生も中途半端であったなら、何にもならないよ」と。
 その通りである。
 中途半端は、絶対にいけない。自分自身が損をするだけだ。
 いったん「やる!」と決めたならば、一生懸命戦う。断じて勝利する。そこに幸福の土台が築かれ、大きな喜びの花が咲く。
 勝つための仏法なのである。

■ 一、日蓮大聖人は仰せである。
 「御みやづかい(仕官)を法華経とをぽしめせ、『一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず』とは此れなり」(御書1295ページ)
 妙法の世界は、あまりにも大きい。日々の仕事も即、信心である。ゆえに仕事で勝っていくことが即、仏法の勝負の証しとなる。

● 「師のため」に徹したから大発展
 一、その後も戸田先生は、ご自身の事業を大きく興隆させ、創価教育学会の財政面を担い支えられた。
 ただただ師匠のために──この一点に徹し切った戸田先生は、飛躍的な事業の大発展を成し遂げていかれたのである。
 戸田先生は語られている。
 「牧口先生も、財務部の事を心配されましたが、当時、理事長の位置にありました戸田が『一人でお引き受けいたします』と申し上げ、牧口先生にご心配をおかけしなかったのです」
 「当時の理事長としての私の覚悟は、会員にはいっさい心配をかけない、金はぜんぶ自分がつくるという気持ちのなかに楽しさを感じていた」と。
 戸田先生の事業は、ひとすじに広宣流布のためだったのである。
 先生の戦前の事業は、ことごとく成功した。しかし、約2年にも及ぶ、社会と隔離された獄中生活が、先生の事業家としての冴えにも、微妙な影を落としたことは、否めない。戦後の事業は、悪戦苦闘の連続となってしまった。
 ありとあらゆる次元で、戸田先生にお世話になったにもかかわらず、ひとたび先生の事業が破綻すると、卑怯な弟子たちは、恩知らずにも、先生を見限り、逃げ去った。そして、戸田先生を軽んずる幹部に追随した。
 恩知らずの人間というものは怖い。一番の功労者を、簡単に貶めるのである。

● 今に見ていろ!
 一、そのとき私は、戸田先生の弟子として、師子奮迅の力で先生をお護りし抜いた。
 「今に見ていろ!」「必ず戸田先生を、世界中が知る戸田先生にしてみせる」「偉大な学会にしてみせる。わが身を犠牲にしてでも」との思いであった。事実、その通りにやってきた。波瀾万丈の日々であった。師匠に仕えることは、全学会員に仕えることと同義であった。
 すごい先生であられた。怖い先生でもあった。不正に対する先生の怒りは、言語に絶するほど、すさまじかった。
 どんな時でも私は、「何の心配もございません」と申し上げることのできる態勢を整えた。
 先生を支えるために夜学も断念したが、「戸田大学」では、万般の学問を授けていただいたのである。

■ 一、「私は戸田先生の弟子です!」
 「今日の学会をつくったのは牧口先生、戸田先生、そして私の三代の師弟である。
 ”牧口先生にお供して投獄され、そして戦後の創価学会を再建なされた戸田先生を護ることが、日蓮大聖人の仏法の命脈を護ることである。広宣流布の命脈を護ることである”。このことを私は、一点の曇りもなく確信していた。
 そして、牧口先生、戸田先生の学会精神を受け継ぎ、戸田先生の苦境を脱する道を開き、第2代会長就任の道を開いていっだ。
 ある時には、「アメリカとも交流を深めて、必ず創価教育の大学をつくります」とお約束した。
 先生と学会に対して悪意の非難を浴びせたある団体を相手に、一人で抗議に行ったこともある。「私は戸田城聖先生の弟子です。真実は、こうです!」と訴え、相手も最後には「わかりました」と非を認めた。
 師匠のために戦った。ゆえに私は何の悔いもない。わが人生に誇りを持っている。
 第3代までは、信心の極理を貫いてきた。この流れを絶つ動きがあれば、絶対に許してはならない。師弟の歴史を甘く見れば、必ず失敗する。
 今は経済的にも恵まれている。人もいる。だからこそ、広宣流布の邪魔をする人間、威張る人間が出てきたときには、毅然と戦わねばならない。
 きょうは、この私の心をだれよりも深く知っている同志が集った。創価の命脈を永遠に厳讃し抜いていっていただきたい。諸君もまた、決して負けない、”本物”の人生を歩んでほしいのである(大拍手)。

■ 一、創価の道、師弟の道を、誠実に、完璧に進めば、その人は皆、生々世々、大福運の境涯となる。
 「天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか」(御書254ページ)とは、有名な「観心本尊抄」の一節である。
 どうか、強盛なる師弟不二の信心、広宣流布の信心を、昇りゆく太陽のように輝かせていただきたい。
 そして「随緑真如」の智慧の光で、混迷する社会の深き闇を、明々と照らしていただきたい(大拍手)。

■ 一、思えば、私が戸田先生と初めてお会いした翌日は、インドがイギリスの植民地支配から独立した日であった(1947年8月15日)。
 戸田先生は「東洋広布」を強く訴えておられた。インドに日蓮仏法が西還することは、戸田先生の悲願であった。その悲願も、私は成就した。
 また私は、これまで歴代の首相や大統領をはじめ、インドの指導者や識者と多くの語らいを重ね、友情を結んできた。
 私は、わが愛する同志とともに走りに走り、今日の1千万の創価の大陣列を築き上げた。全世界への妙法流布の道を開いた。
 日本を見ても、もはや学会に匹敵するほどの民衆の大連帯はない。創価学会は、まさに「宗教界の王者」、そして希望の「世界宗教」として、威風も堂々と輝いているのである(大拍手)。

■ 一、牧口先生、戸田先生の願望であった、創価学園・創価大学も、世界的な学舎として大発展を遂げてきた。
 アメリカ創価大学も、「教育の世紀」の希望の旭日として期待されている。
 弟子が勝ち栄えてこそ、師匠の偉大さは光彩を放つ。
 栄光と勝利で迎えた「8月24日」を、牧口先生も、戸田先生も、心から喜んでおられるに違いない。
 創価の三代は、皆様とともに、勝ちに勝ったと申し上げたい(大拍手)。

 ◆師とともに学んだ「平家物語」

■ 一、戸田先生のもとで、男子部の「水滸会」でも、女子部の「華陽会」でも、共に学んだ一書がある。それは古典の『平家物語』である。
 その冒頭は、あまりにも有名だ。
 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ」偏に風の前の塵に同じ」(杉本圭三郎訳注、講談社学術文庫を参照)
 「平家にあらずんば人にあらず」と豪語し、栄華をほしいままにした、平清盛らの権勢は、30年も経たずに、もろくも滅び去っていった。

● 宗教弾圧の権力は、必ず滅びる
 一、『平家物語』では、歴史を俯瞰しながら、国を滅ぼす愚かな指導者の共通点が、浮き彫りにされている。 それは──
 「自分が仕えていた主君や皇帝の統治に背く」
 「自らの快楽を求め、人の諌言を顧みない」
 「世の中が乱れることもわきまえず、庶民の憂いや苦しみに無関心である」
 などの点である。
 つまり、「忘恩」であり「背信」である。「傲り」であり「慢心」である。そして「油断」であり「無慈悲」である。
 指導者の心の狂いが、国や組織を滅ぼすというのである。まことに重大な、普遍の法則といってよい。
 あの壇ノ浦の合戦で平家が滅び去ったのは、1185年。
 大聖人が聖誕される37年前のことであった。
 蓮祖は、平家の興亡の歴史を、つぶさに凝視された。御書でも、平家の没落の本質を”傲り”であると喝破されている。
 また、その滅亡の根底には、平家の横暴な宗教弾圧があったことも指摘された。(御書1429ページ)
 「宗教弾圧の権力は必ず滅びる」──これは歴史の鉄則であることを、青年が師子吼していくのである。

● 「傲る平家」になるな!
 一、戸田先生は、語っておられた。
 「源頼朝は、平家を滅ぼした後、場所を移して鎌倉に都を築いたのが良かった。そうでなければ、平家と同じく、すぐ滅んだであろう。
 事を成就してから、堕落し、惰弱になりやすいから、気をつけなければならない」
 傲りを排したところが勝つ。
 学会は、永遠に「傲る平家」になってはならない。幹部の堕落・油断を絶対に許してはならない。峻厳に律し、誡めていくことだ。これが、戸田先生の遺誠であられた。
 だからこそ、私心のない、高潔にして絶対に信頼できる、人材の核を固めていかねばならない。その根本は、師弟不二であるかどうか、である。

● 金銭の緩みが滅びの元凶に
 「19世紀に活躍した、「南米解放の父」シモン・ボリバルが、「最も得るのが難しい」と考えていたのは、どのような人材であったか。
 それは、財政の指導者であった。
 なぜなら、「祖国の命運がかかっている」問題を任せることのできる、立派で有能な人物でなければならないからだ。
 ボリバルは、あのフランス革命を引き起こした主な原因に、“財政の不健全さ”があったと述べている。
 当時の王朝では、累積した赤字、貴族らの悪政、乱費によって深刻な財政難が起こっていた。それが国王の統合力の破綻を引き起こし、王朝の滅亡へとつながっていったのである。
 金銭の緩みは滅びの元凶となる。これは、歴史の重要な教訓だ。
 二十二歳のボリバルが、欧州ローマの天地で、師匠ロドリゲスのもと、祖国の解放を誓ったのは、1805年の8月15日であった。
 若き日のボリバルには、400万ドルもの財産があったといわれている。彼は、この財産を祖国解放の戦いに捧げ尽くしていった。
 やがて南米各国の独立を勝ち取り、指導者の立場となっても、ボリバルは公費からの収入を得ようとはしなかった。
 むしろ公共の目的のために私財を使い、借金までした。そして赤貧のなかで亡くなっていったのである。〈ホセ・ルイス・サルセド=バスタルド著、水野一監訳、上智大学イベロアメリカ研究所訳『シモン・ボリーバル』春秋社、神代修著『シモン・ボリーバル』行路社などを参照〉

● 「私の願いは祖国の幸福」
 一、この「ボリバルの家」の壁には、亡くなる1週間前に彼が残した「私の最後の願いは祖国の幸福にある」との遺言が留められていた。
 トーレス館長は、凛として語られた。
 「ボリバルは理想主義者でした」
 「南米統一のために、私心なく、人々に尽くし、自分が勝ち得たすべてを与えた生涯でした」
 私は、トーレス館長に申し上げた。
 「(四十七歳で亡くなったボリバルは)短い一生と言えるかもしれません。
 しかし、人間は、『どれだけ生きたか』以上に『どれだけの仕事を残したか』が大事です。
 私の恩師も、決して長い人生とはいえませんでした。しかし永遠の業績を残しました」と。
 そして、「『世界の宝』を守る大切なお仕事です。大切な人生です」とお伝えしたのである。
 民衆のために、すべてを捧げ尽くしていく指導者の一念は、永遠に不滅である。
 牧口先生も、戸田先生も、そして私も、創価の三代の師弟は、一切を広宣流布のため、学会のために捧げてきた。
 だからこそ、世界に広がりゆく今日の創価学会が築かれたのである。
 この学会を、師弟不二の心で永遠に勝ち栄えさせゆくことを、わが後継の地涌の友に託したい。

● 世界が舞台だ
 一、私が長野研修道場を初めて訪問したのは、昭和54年(1979年)の8月であった。
 その4カ月前に、私は第3代会長を辞任していた。会長辞任を発表した4月24日、自宅に帰ると、妻がいつもと変わらぬ様子で、微笑んで待ってくれていた。
 そして、“本当にご苦労さまでした”“これでまた、大勢の会員の方に会えますね。海外の同志が待っていますよ”──そう語ってくれたのである。
 5月3日、実質的な会長辞任の総会となった八王子での本部総会の後、私は神奈川文化会館へ向かった。
 “神奈川には海がある。いよいよ、世界を舞台に戦うのだ”──私は、そう深く決意していた。
 神奈川文化会館で、ある幹部が教えてくれた。
 この5月3日付の読売新聞に、日米の国民の意識調査の結果が掲載されていた。
 そこには、日本人が「最も尊敬する」日本人の名前が上位20人まで挙げられており、私の名前も出ているという。
 〈吉田茂、野口英世、二宮尊徳、福沢諭吉、昭和天皇と続き、第6位が池田名誉会長であった〉
 学会攻撃の非道な嵐が吹き荒れていた時である。
 こうした形で私の名前が挙げられたことを、わが愛する同志たちは、心から喜び、誇りとしてくださった。
 一方で、創価の師弟に嫉妬し、なんとしても私を追い落とそうとする人間たちの姿は、誠に浅ましい限りであった。

● 大恩を忘れない
 一、創価の三代の師弟も、誇り高き師弟の道を歩み通してきた。
 戸田先生は、日本の広宣流布の基盤を築き、軍国主義と戦って殉教された牧口先生の仇を討たれた。
 私は、戸田先生のために死力を尽くして戦った。先生をお守りするためには、わが身を顧みなかった。
 弟子として、師匠のために何ができるか──ただ、そのことだけを考えていた。
 そして、先生亡き後は、全世界に平和の連帯を広げ、恩師の偉業を宣揚することで、戸田先生の仇を討った。
 これが、本当の「創価の師弟」である。「弟子の道」である。
 私と対談集を発刊した、オックスフォード大学のブライアン・ウィルソン博士は、こう語ってくださった。
 「池田SGI(創価学会インタナショナル)会長の言葉には、いつも、恩師への敬慕と心からの感謝が、あふれています。戸田第2代会長から受けた恩の深さを、決して忘れることはありません」
 「本当に偉大な変革者や指導者は、先人や過去の業績を讃えるものです」
 私は、今も、胸中の戸田先生と対話をしながら、世界広布への指揮を執っている。
 皆様も、この「師弟の大道」をまっすぐに進み抜いていただきたい。断じて勝利の人生を飾っていただきたい。
 「君よ、生涯、わが誓いに生き抜け!」と申し上げて、私のスピーチを結びたい。
 長時間、本当にありがとう!(大拍手)