投稿者:臥子龍メール 投稿日:2016年 9月13日(火)21時18分45秒   通報 編集済
「魔を破る」のと「仏になる」のは同じこと

池田 釈尊も絶えず魔と戦った。「魔と戦い続ける」ことと「仏である」こととは、じつは同じことと言っても過言ではない。

須田 はい。経典を読みますと、釈尊が生涯、魔と戦っていたことは明らかです。そして、魔が競うたびに、釈尊は魔の誘惑を斥けています。その武器は、「信」と「努力」と「智慧」とされています。

池田 そもそも釈尊の悟りそのものが魔との戦いです。釈尊が、菩提樹の下で成道した直後の言葉が残されているね。

遠藤 はい。熱心に修行している釈尊の生命に「法」が顕になった時、″悪魔の軍隊を降して″虚空に輝く太陽のように安立していた、とあります(「ウダーナ」)。

池田 妙法が己心に顕現し、我が生命は、大空の太陽のように悠然と輝いている。これが、仏界だね。「仏界が顕れる」ことと「魔軍を降す」こととは一体なのです。魔は、内にも外にもいる。しかし、それに勝つか、負けるかは自分自身の一念です。大事なことは、勝ち続けることです。立ち止まらないことです。決して魔に紛動されない自分自身を鍛え上げることです。

須田 釈尊は、悟りの時だけではなくて、その後も、絶えず障魔と戦い、魔の誘惑を斥けていたと言われています。中村元博士は、こう述べています。
「悪魔を撃退してからさとりを得たというのではなくて、悪魔を降すこととさとりを得ることとは、同一事実の表裏の関係になっている」(「ゴークマ・ブッダI」、『中村元選集』第十一巻所収、春秋社)
「ブッダたることは、誘惑を斥けるという行為それ自体のうちに求められねばならぬ。不断の精進がそのまま仏行(ぶつぎょう)なのである。さとりを開いて『仏』という別のものになるのではない」(『ゴータマ・ブッダ』1,『中村元選集[決定版]』)

池田 仏界とは、妙法と一体の境地であり、仏とは、妙法を師とする人です。妙法を受持しぬく境地そのものが仏界です。釈尊は成道の直後に、″妙法を師として生き続ける″ことを誓って、こう言っている。
「わたくしはこの法(dhamma)をさとったのだ。わたくしはその法を尊敬し、うやまい、たよっているようにしよう」(同前)。そして、その通りの生涯をまっとうした。

斉藤 入滅の時の言葉にも、「わたしは自己に帰依することをなしとげた」(『ゴータマ・ブッダ』2,同選集12)とあります。自己に帰依するというのは、内なる永遠の妙法に帰依するということですね。

遠藤 弟子たちにも、自分と同じように、「法と自己を拠り所とせよ」と遺言しています。

池田 「心の師とはなるとも心を師とせざれ」(『六波羅蜜経』)ということです。自分中心ではなく、法を中心に生きるということです。広宣流布を中心に生きるということです。そうしていこうという心が信心です。